彦さん

彦さんは、学校の外にもしばしば生徒を連れ出した。その理由は、生徒たちを世の中の思想的潮流にじか触れさせようとしたからではないだろうか。当時、市内各所で左翼の文化人による講演会が催され、多くの聴衆を集めていた。
 多少時間的なずれがあるかも知れないが、詩人のぬやま・ひろし、文芸評論家の平野謙、足利出身の作家、壇一雄などが演者として顔をみせていたように思う。
 それと相前後して高校教師を中心する文化講座も開かれるようになり、受付要員として足立、登坂、遠藤、粉川の四人が駆り出された。
 そのお蔭で、他校の国語教師とも顔馴染みになり、いつしか彼等の俳句サークルにも加わるようになった。その席では、もう教師と生徒と間の、いわゆる「かまえた関係」はなくなっていた。
 彦さんが足利高校に在席したのは、わずか二年間だけだった。彦さんの送別会が講堂で開かれた時、われわれ四人は、シーンとした式場にポータブル蓄音機を持ち込み、彦さんの好きなバッハのフーガやメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲をかけて、せめての餞とした。すると演奏中に戦前からの英語教師、谷津先生が近づいてきて、小声で囁くように「先生のお話が聞き取りにくいので、止めてもらえませんか」と言ったので、われわれは蓄音機を提げてそのまま鎮まりかえった会場を後にした。当然、教師としては一喝くらわせたいところだろうが、しかしわれわれの無礼な行為を咎め立てする教師は誰もいなかった。
 彦さんは、ほどなく東京の夜間高校へ移り、しばらく後に、秋田の女子大学で教鞭をとるようになった。以後、晩年に至るまでわれわれとの音信は途絶えたままになる。

 その頃、街に出ると、しばしば左翼的な言説を耳にするようになった。発信源は共産党インターナショナル(コミンテルン)だったと思うが詳細は分らない。ブルジョア資本主義を倒すために、われわれは立ち上がらなければならないという暴力革命論を唱える者から、封建主義、資本主義、共産主義に至る歴史的必然性を説き、革命がもう目の前にせまりつつあると真顔で語る者もいた。
 共産主義の考え方のなかには、誰からも強制もされず支配されることない理想社会の実現を目指すと言う一種のユートピア論がある。しかし実際の革命によって惹き起こされた事態をみれば、その実像は、異分子の強行排除による少数者独裁の国家であり、誰もが求める自由な社会とはほど遠い監視社会であったことがわかる。しかし当時のわれわれには、ソ連という国家で実際に何が起こっているかを、客観的に観察するだけの知識も情報も持ち合わせていなかった。
 戦後の混乱した社会の中では、共産主義の言う、資本による搾取からの解放と言うスローガンは若者にとっては魅力的に映った。資本論にある詳細な経済理論を理解できるはずもなかったが、上から錘りのようにのしかかる世の中の仕組みを吹き飛ばすには、恰好な理論だったような気がする。
 しかし身近に何人かの共産党員もいたが、彼等と革命について議論したと言う記憶はない。彼等は「赤旗」を配るとか、読書集会を開くなど党員としての地道な普及活動をしていたのだろう。ただ私の知る活動家の何人かは、路上で古本を売っている者、商店街の看板や広告を手掛ける者、町工場で油まみれになって働いている者など、どちらかと言えば、社会の底辺で暮らしている者が多かったような気がする。
 元高校の教師をしていたと言う共産党員の、謄写版業者に会ったことがある。その人は裏長屋の片隅で、黙々とガリ版をきっていた。学校を辞めた理由を聞いてみると校長と喧嘩したからだと言う。その人が校長に、どんな「たんか」切って辞めたかまでは聞かなかったが、その暮らしを考えれば、じっと我慢して教師を続けていることもできたのではないだろうか。しかしそれをしなかったのは、共産党に何らかの希望を持っていたのか、あるいは時代の趨勢だったのか、持ち前の強い抵抗精神がそうさせたのか、それは今でもよく分らない。

 当時、占領軍は大胆な改革を次々に打ち出していた。改革の目玉としては、民主憲法の制定、学校改革、農地解放がなどある。なかでも農地解放は、農村の土地所有の関係を抜本的に改革するもので、不在地主はもちろん、大土地所有者、小地主の土地も、その大部分を本来の耕作者である小作農に払い下げるべしと言う画期的なものだった。
 これによって長年続いてきた地主と小作農の関係は大きく変わり、農民の多くが地主の収奪から解放されることになった。
 農地解放によって、東北地方の大地主が凋落してゆく様子は、アメリカのジャーナリスト、マークゲンイの「日本日記」に詳しく記されている。
 農地解放は、占領軍の強力な力によって行われた改革である。このような理想主義的で大胆な改革は、今後、資本主義の世の中では二度と行われることはないだろう。
 戦後を代表する農地解放は、零細な小作農による下からの改革でもたらされたものはないが、結果的には、共産主義が目指す改革とかなり近いものがあったと言えるのではないだろうか。