教師たちの戦後3

 中学五年になってからも、鉄拳教師、丸山鉄也先生は、相変わらずクラスの担任を続けていた。その丸山先生ことボーイングも、この時期になるとさすがに態度を変え始めていた。教師のなかには、生徒に対して妙な丁寧語を使い始めた者もいたが、さすがにボーイングには、それほどの豹変はできなかった。同じ関係修復でもボーイングにはボーイングとしてのやり方があったのだろう。
 ボーイングのクラスで学校の演劇祭にかける台本を募集した時のことである。応募したのは私と山本の二人だったが、ボーイングは、何故か私の台本を採用した。「霖雨」(ながあめ)と言う私の台本は、妾腹の子が、尋ねてきた友達相手に鬱屈した気持ちを語ると言う、ただそれだけの話だが、台本だけを見れば、山本鉱太郎の方が会話の運びも達者でよく書けていたように思う。
 私の台本が選ばれた理由を強いて挙げれば、後年旅行作家となる山本の書いた軽演劇風の台本には、戦後と言う時代の重苦しい影が感じられなかったからだろうか。 そう言えば、たしかに霖雨という芝居には救いが無い。主人公の中田家次にも、マントを肩にぶらっと訪れる友人、馬場弘彦の芝居にも、最後までメランコリックな影がつきまとっていたような気がする。しかし、それが選ばれた理由とはどうしても考えにくい。
私には、私が選ばれた訳は別にあったような気がしてならない。本当の理由は、ボーイングが馭し難い私に対して、彼なりの仕方で、歩み寄りを示そうとしたのではないか。そう思われてならない。

 しかしボーイングの私に対する戦時中の度を越えた身体的な仕打ちは、今でも心に深く棘として残っている。