2008-01-01から1年間の記事一覧

飢えの記憶

戦争末期から戦後にかけての時期を一言でいえば、「空腹の時間」と言うことができる。当時主食の米はもちろん、小麦、大豆、肉類などは厳しく統制されており、その量も年々少なくなっていた。 わが家でも一回の食事は、丼一杯と言う厳しい制限が加えられるよ…

戦争の曲がり角

すでに日本の劣勢は誰の目にも明らかだったが、地上では、戦意を鼓舞するために各地で竹槍訓練が行われていた。竹槍とB29とでは、比較すること事態、笑止千万な話だが、しかし誰もが竹槍で敵の一人や二人は倒せると信じて訓練に臨んでいた。 竹槍は、蟷螂…

戦争の曲がり角

昭和十七年、1942年、日本海軍はミッドウエー海戦で壊滅的な打撃を受けたことは、今では多くの人に知られている。その戦闘で、日本の機動部隊は、アメリカ艦載機の奇襲をうけて主力空母四隻を失い、事実上、洋上での制空権を失うことになった。 以後、戦…

隣組

その頃本土でも、国民総動員体制が着々と進んでいた。日中戦争の拡大と共に始まる隣組みは、昭和十四年には全国に普及し、臨戦組織としての役割が明確に打ち出されるようになる。 当時わが家でも月に一度ほど、定期的に常会が開かれるようになっていた。隣組…

戦闘機

織物の街足利に戦争の影響が直接、目に見える形でやってきたのは、それから間もなくのことである。それは軍靴で、無抵抗な虫を踏みつぶすように突然やってきた。 足利では軍の命令で多くの工場で織機が破壊され、屑鉄として回収された。小学校の校庭にも鉄屑…

太平洋戦争の頃

昭和十六年、1941年、真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争は、初戦で大きな戦果を収めた。小学校高学年だった私は、ラジオから東部軍官区情報と言うリフレーンが流れる度にラジオに齧りつくようにして、大本営発表を聞いていた。 何故、日本が無謀とも言えるア…

戦争の影

隣の工場には、女工さんは少なく、工員の多くは若い男たちだった。彼等は野球好きで、近くの子供たちを集めてよくキャッチボールをしていた。 その彼等にも戦争の影は徐々に近づきつつあった。 日中戦争が進につれて、男たちの何人かも兵士として招集される…

隣家の悲劇

公園の高台に立つと、東西に長い足利市を一望に見渡すことができる。北側に足尾山塊の山襞が迫り、南に蛇行する渡良瀬川が銀鼠色に光ってみえる。市街地は一帯に灰色にくすんだ町並みがつづき、至る所にボイラーの煙突が突き出ていた。当時、林立する煙突は…

当時はまだ、戦争の足音は遠い霞の彼方にあり、足利の織物も好景気が続いていた。 春になると、冬の間、川面を吹き荒れていた赤城おろしも収まり、川端の桜も薄紅色の彩りをみせはじめる。 桜の季節になると、わが家では女工さん共々、家中で花見に行くのが…

長屋の暮らし

足利は昔から続く織物の街である。昭和十二年日中戦争が始まってからも、まだしばらくの間は、街には鋸屋根の織物工場があり、至る所で横糸を運ぶ「ひ」の音が響いていた。 街にでるとしばしば出征経兵士を見送る行列に出合うことはあったが、それはあくまで…

夏の河川敷

夏になると渡良瀬川の河川敷には、三、四軒の葦簀張りの茶店がでた。店まわりには竹の縁台が置かれ、店では、小さく切ったジャガイモを串刺しにしてフライにしたイモフライやコロッケ、かき氷などを商っていた。客は主に近所の子供たちか、川辺に遊びにきた…

山辺町

足利市の南縁に沿って流れる渡良瀬川には、銀色のわたらせ橋と褐色に塗られた中橋の二つの鉄橋がある。すでに公害の記憶も薄れ、渡良瀬川の水は私のなかでは、いつも澄んだ瀬音を立てて流れている。 私にとって河川敷は子供時代、唯一の遊びの空間であり、こ…

昭和初期の記憶2

中州で近所の子供たちと遊んでいた時、子犬を拾ったことがある。とても可愛い子犬だったので、しばらく一緒に遊んでいたが、いざ帰る段になると、連れて帰るものは誰もいなかった。子犬は川を渡ることができない。そのまま死なせては可哀そうだと思い、こっ…

昭和初期の記憶

昭和初期の記憶(戦前の話) 私の家は足利の南を流れる渡良瀬川の土手下にあった。子供の頃、近くの長屋の子供たちとよく河川敷で遊んだ。その頃、川にはまだ本格的な堤防がなく、川べりには水流を調整するための石を詰めた蛇籠が敷き詰められていた。春にな…

目に見える医療と見えない医療

私が医療について書こうと思ったのは、長い間、映像の仕事を通して係わってきたからです。しかしそれだけではありません。漢方の治療学が通常の医師が行う医療とは異なり、極めて人間的なものに思えたからです。 医師が患者と向き合うとき、医師の目に映るの…