2009-01-01から1年間の記事一覧

和泉先生のこと

今にして思えば、敗戦の時に学校の教師をすべて入れ替えておけば、教師と生徒の間は心理的な対立も少なく、はるかにうまくいったのではないかと思えてならない。お互いに過去を知らなければ、無駄な対立の多くは避けられたはずである。 戦後、教師の交換は一…

彦さん

彦さんは、学校の外にもしばしば生徒を連れ出した。その理由は、生徒たちを世の中の思想的潮流にじか触れさせようとしたからではないだろうか。当時、市内各所で左翼の文化人による講演会が催され、多くの聴衆を集めていた。 多少時間的なずれがあるかも知れ…

丸山一彦先生のこと

敗戦後の街の風景が少しずつ変わり始めた頃、教員室の顔ぶれにも、ようやく新しい風が吹き込んできた。新たに赴任してきた丸山一彦先生は、文理大を出て間もない新進気鋭の教師で、戦前からの居残り組とは全く違う雰囲気を持っていた。専門は国語だったが、…

教師たちの戦後3

中学五年になってからも、鉄拳教師、丸山鉄也先生は、相変わらずクラスの担任を続けていた。その丸山先生ことボーイングも、この時期になるとさすがに態度を変え始めていた。教師のなかには、生徒に対して妙な丁寧語を使い始めた者もいたが、さすがにボーイ…

教師たちの戦後2

当時、私の周りにいた優等生のなかに、成績の落ちた生徒が数人いたことは事実である。もちろん、一方には、成績も落さず、読書にも熱心な生徒も少なくなかった。記憶に残るところでは、藤井陽一郎、市川靖郎など名を思い出す。努力家で物理学の古典などをよ…

教師たちの戦後

敗戦後二年が経ち、学校の空気も大きく変わり始めた。敗戦の混乱は、一時的にせよ、生徒たちに、鉄の鎖から解放されたような自由を与えた。しかし教師にたちにとって敗戦と言う経験は、想像を絶する重荷として意識されていたに違いない。なぜなら、教師の多…

戦後の学校3

旧制中学も五年になると、生徒たちは一段と大人びてくる。教室の雰囲気も次第に進学組と卒業組とに色分けされ、一流大学を目指す進学組のなかには授業が終ると、東大受験を目指す寺田實のように受験勉強のために駆け足で家に帰る者、また塾に直行する者、受…

戦後の学校2

教師からの圧力が徐々に薄れるにつれ、生徒はしばしば規則を無視した行動をとるようになった。無断で休む者もあり、授業を無視して教室内を勝手に歩きまわる者もいた。 ある時、数学の授業中に私を含めて五、六人生徒が窓から一挙に脱出したことがある。脱出…

その後

夏休みが終わると、相変わらず戦闘帽を被り、何事もなかったように学校へ通い始めた。すでに奉安殿は固く閉ざされ、敬礼をする者もなかった。 しかし一歩職員室に入ると、そこは異様な空気に包まれていた。教師たちはあくまで冷静に振る舞おうとしていたが、…

敗戦の日

中学三年の夏、1945年、昭和二十年八月に敗戦の日を迎えた。ラジオの臨時放送で、天皇が不明朗な声で敗戦を告げると、家の中が一瞬、鎮まりかえった。父は目に涙を浮かべ、母は押し黙った。昨日までの張り詰めた思いは、嘘のように消え、言いようのない…

将校

戦時中、軍事訓練を担当していた配属将校の一人に岡崎中尉がいた。中尉は、足利の北にある北郷村の出身で、見るからに軍人らしいがっしりした体つきの男だった。 彼は、主に軍隊式の隊列の組み方や三八式歩兵銃の扱い方などをわれわれに指導していた。その岡…

丸山先生という人

ここで話を丸山先生に戻そう。先生とは国語教師として、また中学一年から五年までのクラス担任として顔を突き合わせていた間柄である。 先生は、ようやく三十路を越えた頃だったろうか。見るからに、水母のような水気の多い肥満体質で、厚みのある肩の上に載…

戦時下の足利中学校

私の通っていた旧制足利中学は、市の北のはずれ、両崖山麓にあった。渡良瀬川畔のわが家からは歩いて30分ほどの距離である。 街中を抜けて、一面に稲田が広がる本城田圃を真っ直ぐ北に進み、途中、山沿いの道を左に折れると校門が見えてくる。校門の正面、…