卒業前後

市内高校の合同演劇祭が中止になってからは、われわれの演劇熱も一段落した。高校生活も残り少なくなり、それぞれに卒業後の進路決定を迫られていた。 大学への進学を目指す生徒たちの多くは、もっぱら勉強に専念していた。新制大学に入るには、新制高校の三…

和泉先生のこと

今にして思えば、敗戦の時に学校の教師をすべて入れ替えておけば、教師と生徒の間は心理的な対立も少なく、はるかにうまくいったのではないかと思えてならない。お互いに過去を知らなければ、無駄な対立の多くは避けられたはずである。 戦後、教師の交換は一…

彦さん

彦さんは、学校の外にもしばしば生徒を連れ出した。その理由は、生徒たちを世の中の思想的潮流にじか触れさせようとしたからではないだろうか。当時、市内各所で左翼の文化人による講演会が催され、多くの聴衆を集めていた。 多少時間的なずれがあるかも知れ…

丸山一彦先生のこと

敗戦後の街の風景が少しずつ変わり始めた頃、教員室の顔ぶれにも、ようやく新しい風が吹き込んできた。新たに赴任してきた丸山一彦先生は、文理大を出て間もない新進気鋭の教師で、戦前からの居残り組とは全く違う雰囲気を持っていた。専門は国語だったが、…

教師たちの戦後3

中学五年になってからも、鉄拳教師、丸山鉄也先生は、相変わらずクラスの担任を続けていた。その丸山先生ことボーイングも、この時期になるとさすがに態度を変え始めていた。教師のなかには、生徒に対して妙な丁寧語を使い始めた者もいたが、さすがにボーイ…

教師たちの戦後2

当時、私の周りにいた優等生のなかに、成績の落ちた生徒が数人いたことは事実である。もちろん、一方には、成績も落さず、読書にも熱心な生徒も少なくなかった。記憶に残るところでは、藤井陽一郎、市川靖郎など名を思い出す。努力家で物理学の古典などをよ…

教師たちの戦後

敗戦後二年が経ち、学校の空気も大きく変わり始めた。敗戦の混乱は、一時的にせよ、生徒たちに、鉄の鎖から解放されたような自由を与えた。しかし教師にたちにとって敗戦と言う経験は、想像を絶する重荷として意識されていたに違いない。なぜなら、教師の多…

戦後の学校3

旧制中学も五年になると、生徒たちは一段と大人びてくる。教室の雰囲気も次第に進学組と卒業組とに色分けされ、一流大学を目指す進学組のなかには授業が終ると、東大受験を目指す寺田實のように受験勉強のために駆け足で家に帰る者、また塾に直行する者、受…

戦後の学校2

教師からの圧力が徐々に薄れるにつれ、生徒はしばしば規則を無視した行動をとるようになった。無断で休む者もあり、授業を無視して教室内を勝手に歩きまわる者もいた。 ある時、数学の授業中に私を含めて五、六人生徒が窓から一挙に脱出したことがある。脱出…

その後

夏休みが終わると、相変わらず戦闘帽を被り、何事もなかったように学校へ通い始めた。すでに奉安殿は固く閉ざされ、敬礼をする者もなかった。 しかし一歩職員室に入ると、そこは異様な空気に包まれていた。教師たちはあくまで冷静に振る舞おうとしていたが、…

敗戦の日

中学三年の夏、1945年、昭和二十年八月に敗戦の日を迎えた。ラジオの臨時放送で、天皇が不明朗な声で敗戦を告げると、家の中が一瞬、鎮まりかえった。父は目に涙を浮かべ、母は押し黙った。昨日までの張り詰めた思いは、嘘のように消え、言いようのない…

将校

戦時中、軍事訓練を担当していた配属将校の一人に岡崎中尉がいた。中尉は、足利の北にある北郷村の出身で、見るからに軍人らしいがっしりした体つきの男だった。 彼は、主に軍隊式の隊列の組み方や三八式歩兵銃の扱い方などをわれわれに指導していた。その岡…

丸山先生という人

ここで話を丸山先生に戻そう。先生とは国語教師として、また中学一年から五年までのクラス担任として顔を突き合わせていた間柄である。 先生は、ようやく三十路を越えた頃だったろうか。見るからに、水母のような水気の多い肥満体質で、厚みのある肩の上に載…

戦時下の足利中学校

私の通っていた旧制足利中学は、市の北のはずれ、両崖山麓にあった。渡良瀬川畔のわが家からは歩いて30分ほどの距離である。 街中を抜けて、一面に稲田が広がる本城田圃を真っ直ぐ北に進み、途中、山沿いの道を左に折れると校門が見えてくる。校門の正面、…

飢えの記憶

戦争末期から戦後にかけての時期を一言でいえば、「空腹の時間」と言うことができる。当時主食の米はもちろん、小麦、大豆、肉類などは厳しく統制されており、その量も年々少なくなっていた。 わが家でも一回の食事は、丼一杯と言う厳しい制限が加えられるよ…

戦争の曲がり角

すでに日本の劣勢は誰の目にも明らかだったが、地上では、戦意を鼓舞するために各地で竹槍訓練が行われていた。竹槍とB29とでは、比較すること事態、笑止千万な話だが、しかし誰もが竹槍で敵の一人や二人は倒せると信じて訓練に臨んでいた。 竹槍は、蟷螂…

戦争の曲がり角

昭和十七年、1942年、日本海軍はミッドウエー海戦で壊滅的な打撃を受けたことは、今では多くの人に知られている。その戦闘で、日本の機動部隊は、アメリカ艦載機の奇襲をうけて主力空母四隻を失い、事実上、洋上での制空権を失うことになった。 以後、戦…

隣組

その頃本土でも、国民総動員体制が着々と進んでいた。日中戦争の拡大と共に始まる隣組みは、昭和十四年には全国に普及し、臨戦組織としての役割が明確に打ち出されるようになる。 当時わが家でも月に一度ほど、定期的に常会が開かれるようになっていた。隣組…

戦闘機

織物の街足利に戦争の影響が直接、目に見える形でやってきたのは、それから間もなくのことである。それは軍靴で、無抵抗な虫を踏みつぶすように突然やってきた。 足利では軍の命令で多くの工場で織機が破壊され、屑鉄として回収された。小学校の校庭にも鉄屑…

太平洋戦争の頃

昭和十六年、1941年、真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争は、初戦で大きな戦果を収めた。小学校高学年だった私は、ラジオから東部軍官区情報と言うリフレーンが流れる度にラジオに齧りつくようにして、大本営発表を聞いていた。 何故、日本が無謀とも言えるア…

戦争の影

隣の工場には、女工さんは少なく、工員の多くは若い男たちだった。彼等は野球好きで、近くの子供たちを集めてよくキャッチボールをしていた。 その彼等にも戦争の影は徐々に近づきつつあった。 日中戦争が進につれて、男たちの何人かも兵士として招集される…

隣家の悲劇

公園の高台に立つと、東西に長い足利市を一望に見渡すことができる。北側に足尾山塊の山襞が迫り、南に蛇行する渡良瀬川が銀鼠色に光ってみえる。市街地は一帯に灰色にくすんだ町並みがつづき、至る所にボイラーの煙突が突き出ていた。当時、林立する煙突は…

当時はまだ、戦争の足音は遠い霞の彼方にあり、足利の織物も好景気が続いていた。 春になると、冬の間、川面を吹き荒れていた赤城おろしも収まり、川端の桜も薄紅色の彩りをみせはじめる。 桜の季節になると、わが家では女工さん共々、家中で花見に行くのが…

長屋の暮らし

足利は昔から続く織物の街である。昭和十二年日中戦争が始まってからも、まだしばらくの間は、街には鋸屋根の織物工場があり、至る所で横糸を運ぶ「ひ」の音が響いていた。 街にでるとしばしば出征経兵士を見送る行列に出合うことはあったが、それはあくまで…

夏の河川敷

夏になると渡良瀬川の河川敷には、三、四軒の葦簀張りの茶店がでた。店まわりには竹の縁台が置かれ、店では、小さく切ったジャガイモを串刺しにしてフライにしたイモフライやコロッケ、かき氷などを商っていた。客は主に近所の子供たちか、川辺に遊びにきた…

山辺町

足利市の南縁に沿って流れる渡良瀬川には、銀色のわたらせ橋と褐色に塗られた中橋の二つの鉄橋がある。すでに公害の記憶も薄れ、渡良瀬川の水は私のなかでは、いつも澄んだ瀬音を立てて流れている。 私にとって河川敷は子供時代、唯一の遊びの空間であり、こ…

昭和初期の記憶2

中州で近所の子供たちと遊んでいた時、子犬を拾ったことがある。とても可愛い子犬だったので、しばらく一緒に遊んでいたが、いざ帰る段になると、連れて帰るものは誰もいなかった。子犬は川を渡ることができない。そのまま死なせては可哀そうだと思い、こっ…

昭和初期の記憶

昭和初期の記憶(戦前の話) 私の家は足利の南を流れる渡良瀬川の土手下にあった。子供の頃、近くの長屋の子供たちとよく河川敷で遊んだ。その頃、川にはまだ本格的な堤防がなく、川べりには水流を調整するための石を詰めた蛇籠が敷き詰められていた。春にな…

目に見える医療と見えない医療

私が医療について書こうと思ったのは、長い間、映像の仕事を通して係わってきたからです。しかしそれだけではありません。漢方の治療学が通常の医師が行う医療とは異なり、極めて人間的なものに思えたからです。 医師が患者と向き合うとき、医師の目に映るの…