和泉先生のこと

今にして思えば、敗戦の時に学校の教師をすべて入れ替えておけば、教師と生徒の間は心理的な対立も少なく、はるかにうまくいったのではないかと思えてならない。お互いに過去を知らなければ、無駄な対立の多くは避けられたはずである。
 戦後、教師の交換は一部行われたが、まだほんの少数に過ぎなかった。和泉先生が、足利高校へ赴任してきたのは、敗戦後三年ほど過ぎてからである。
 先生は近くの女子高校の教師をしており、以前から彦さんを通じて知り合い、親しく言葉を交わす間柄だった。
 先生が足利高校へ赴任してきた時は、すでに中年の域に達しており、当然、戦争中の教育とも深く係わってきたはずだが、しかしその言動は超然としていて、国粋主義的な影は微塵もなかった。
 先生は、東京大学美学科の出身で、大正時代の教養人を彷彿させる風格があり、話し方は咄々としていたが、人を惹きつける不思議な魅力の持ち主だった。
 そう言えば、先生には若い頃、十八世紀のドイツ浪漫派の詩人、ノバーリスについて書いた論考がある。ノバーリスは神秘主義者としても知られており、あるいは、近代の科学的社会主義の対極にある神秘主義的な影響をどこかに留めていたのかも知れない。
 一度、先生のお宅を尋ねたことがある。小綺麗な座敷で、先生のご母堂が淹れてくれた上等なお茶の味が忘れられない。先生のお母さんは、若い頃、いつも紫色の鼻緒の草履を履いていたと言う噂があり、老いてもなお、不思議な色香が漂っていた。大正の頃はモダンガールとして街を闊歩していたのではないだろうか。
 その折先生は、詩とリズムと言うテーマで話してくれたような気がするが、その詳細については思い出せない。
 夭折した詩人、中原中也の名を知ったのも、その時だったような気がする。早熟の天才といわれた中也の愛好者は今でも多いが、先生も中也の詩を高く評価おり、授業中にもよく朗読して聞かせた。
 中也を世に送り出した評論の大御所、小林秀雄だが、両者の因縁話は別にして、和泉先生は、小林秀雄の文章もよく読んでいた。他にも先生からは多くのことを学んだが、しかし私と先生との関係は、すべて順調と言うわけではなかった。
 その頃、学生の一部では演劇熱が盛り上がり、私も当時、演劇仲間の一人として没落貴族をテーマとした「落葉の群れ」と言う台本を書いて上演することになった。その芝居は、柳田隆三、大竹勝三、登坂美治、粉川宏、遠藤昭など多くの友人たちの協力により、順調に滑り出した。
 問題は、芝居の冒頭に、主人公がP・B・シエリーの「西風の賦」の最後の一節を朗唱するくだりがあり、演出上必要だと言うことで、主人公役の粉川宏に本物の煙草を吸わせたことである。観ていた教師も生徒も一瞬、唖然としたはずだが、誰もその場で非難する者はなかった。しかしいくら学校が乱れていたとは言え、教師としては黙って見過ごすことはできなかったはずである。
 その後、市内の高校合同で芝居をやることになったが、配役の選定で揉めにもめ、合同演劇祭は、和泉先生の一言でついに取りやめとなった。その原因は大半、私の独断にあったが、今になって考えてみると、戦後に訪れた価値観の大転換が影を引き摺り、私を含めて一部の生徒を、歯止めの利かない暴走行為に走らせたように思えてならない。