卒業前後

市内高校の合同演劇祭が中止になってからは、われわれの演劇熱も一段落した。高校生活も残り少なくなり、それぞれに卒業後の進路決定を迫られていた。
 大学への進学を目指す生徒たちの多くは、もっぱら勉強に専念していた。新制大学に入るには、新制高校の三年卒業と言う資格が必要だったからである。そのため、高校の三年のクラスには、受験資格をとるため、予科練(海軍飛行予科練習生)帰りの者や中学五年で大学入試に失敗した年上の生徒が新たに加わってきた。
 芸大を目指して三年クラスに入ってきた四歳年上の磯直温は、大の酒好きだった。その頃は具象的な絵を描いていたが、抽象絵画についても一家言を持ち、小使い室の炉端で煙草を喫いながらよく絵画論を語っていた。結局、芸大には入れなかったが、足利の若い絵画グループでは常にリーダー的役割を果たしていた。
 また彼は、芝居にも熱心で、市内の演劇サークルで、モリエールの「人間嫌い」などの芝居などを上演していた。こうした創作活動にのめり込む男たちは、絵画、詩、俳句、演劇などジャンルを問わず何に対しても手を出す傾向があった。しかしこうした気ままな活動は、やがて来る厳しい実生活からは、まだまだ遠い距離にあったからこそ可能だったことは言うまでない。
 それにしても、和泉先生も彦さんも、勝手気ままな生徒の面倒を最後までよくみてくれたなとつくづく思うことがある。その意味で二人とも心に残る教師だった。
 彦さんは、蕪村、一茶の研究者として名を成し、和泉先生は生涯を高校の教師として過ごした。和泉先生には、岩波の「文学」に掲載され吉田兼好の「つれづれ草」について書いた小論があり、その原稿を、先生のお宅の上がり框で読んだ憶えがある。
 その折、先生は「つれづれとは時間を持て余していると言う意味ではない。つれづれの底には兼好の鬱屈した思いが隠されている」と言っていた。それは戦後と言う激変する時代を生きた先生の偽らざる実感だったかも知れない。

和泉先生のこと

今にして思えば、敗戦の時に学校の教師をすべて入れ替えておけば、教師と生徒の間は心理的な対立も少なく、はるかにうまくいったのではないかと思えてならない。お互いに過去を知らなければ、無駄な対立の多くは避けられたはずである。
 戦後、教師の交換は一部行われたが、まだほんの少数に過ぎなかった。和泉先生が、足利高校へ赴任してきたのは、敗戦後三年ほど過ぎてからである。
 先生は近くの女子高校の教師をしており、以前から彦さんを通じて知り合い、親しく言葉を交わす間柄だった。
 先生が足利高校へ赴任してきた時は、すでに中年の域に達しており、当然、戦争中の教育とも深く係わってきたはずだが、しかしその言動は超然としていて、国粋主義的な影は微塵もなかった。
 先生は、東京大学美学科の出身で、大正時代の教養人を彷彿させる風格があり、話し方は咄々としていたが、人を惹きつける不思議な魅力の持ち主だった。
 そう言えば、先生には若い頃、十八世紀のドイツ浪漫派の詩人、ノバーリスについて書いた論考がある。ノバーリスは神秘主義者としても知られており、あるいは、近代の科学的社会主義の対極にある神秘主義的な影響をどこかに留めていたのかも知れない。
 一度、先生のお宅を尋ねたことがある。小綺麗な座敷で、先生のご母堂が淹れてくれた上等なお茶の味が忘れられない。先生のお母さんは、若い頃、いつも紫色の鼻緒の草履を履いていたと言う噂があり、老いてもなお、不思議な色香が漂っていた。大正の頃はモダンガールとして街を闊歩していたのではないだろうか。
 その折先生は、詩とリズムと言うテーマで話してくれたような気がするが、その詳細については思い出せない。
 夭折した詩人、中原中也の名を知ったのも、その時だったような気がする。早熟の天才といわれた中也の愛好者は今でも多いが、先生も中也の詩を高く評価おり、授業中にもよく朗読して聞かせた。
 中也を世に送り出した評論の大御所、小林秀雄だが、両者の因縁話は別にして、和泉先生は、小林秀雄の文章もよく読んでいた。他にも先生からは多くのことを学んだが、しかし私と先生との関係は、すべて順調と言うわけではなかった。
 その頃、学生の一部では演劇熱が盛り上がり、私も当時、演劇仲間の一人として没落貴族をテーマとした「落葉の群れ」と言う台本を書いて上演することになった。その芝居は、柳田隆三、大竹勝三、登坂美治、粉川宏、遠藤昭など多くの友人たちの協力により、順調に滑り出した。
 問題は、芝居の冒頭に、主人公がP・B・シエリーの「西風の賦」の最後の一節を朗唱するくだりがあり、演出上必要だと言うことで、主人公役の粉川宏に本物の煙草を吸わせたことである。観ていた教師も生徒も一瞬、唖然としたはずだが、誰もその場で非難する者はなかった。しかしいくら学校が乱れていたとは言え、教師としては黙って見過ごすことはできなかったはずである。
 その後、市内の高校合同で芝居をやることになったが、配役の選定で揉めにもめ、合同演劇祭は、和泉先生の一言でついに取りやめとなった。その原因は大半、私の独断にあったが、今になって考えてみると、戦後に訪れた価値観の大転換が影を引き摺り、私を含めて一部の生徒を、歯止めの利かない暴走行為に走らせたように思えてならない。

彦さん

彦さんは、学校の外にもしばしば生徒を連れ出した。その理由は、生徒たちを世の中の思想的潮流にじか触れさせようとしたからではないだろうか。当時、市内各所で左翼の文化人による講演会が催され、多くの聴衆を集めていた。
 多少時間的なずれがあるかも知れないが、詩人のぬやま・ひろし、文芸評論家の平野謙、足利出身の作家、壇一雄などが演者として顔をみせていたように思う。
 それと相前後して高校教師を中心する文化講座も開かれるようになり、受付要員として足立、登坂、遠藤、粉川の四人が駆り出された。
 そのお蔭で、他校の国語教師とも顔馴染みになり、いつしか彼等の俳句サークルにも加わるようになった。その席では、もう教師と生徒と間の、いわゆる「かまえた関係」はなくなっていた。
 彦さんが足利高校に在席したのは、わずか二年間だけだった。彦さんの送別会が講堂で開かれた時、われわれ四人は、シーンとした式場にポータブル蓄音機を持ち込み、彦さんの好きなバッハのフーガやメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲をかけて、せめての餞とした。すると演奏中に戦前からの英語教師、谷津先生が近づいてきて、小声で囁くように「先生のお話が聞き取りにくいので、止めてもらえませんか」と言ったので、われわれは蓄音機を提げてそのまま鎮まりかえった会場を後にした。当然、教師としては一喝くらわせたいところだろうが、しかしわれわれの無礼な行為を咎め立てする教師は誰もいなかった。
 彦さんは、ほどなく東京の夜間高校へ移り、しばらく後に、秋田の女子大学で教鞭をとるようになった。以後、晩年に至るまでわれわれとの音信は途絶えたままになる。

 その頃、街に出ると、しばしば左翼的な言説を耳にするようになった。発信源は共産党インターナショナル(コミンテルン)だったと思うが詳細は分らない。ブルジョア資本主義を倒すために、われわれは立ち上がらなければならないという暴力革命論を唱える者から、封建主義、資本主義、共産主義に至る歴史的必然性を説き、革命がもう目の前にせまりつつあると真顔で語る者もいた。
 共産主義の考え方のなかには、誰からも強制もされず支配されることない理想社会の実現を目指すと言う一種のユートピア論がある。しかし実際の革命によって惹き起こされた事態をみれば、その実像は、異分子の強行排除による少数者独裁の国家であり、誰もが求める自由な社会とはほど遠い監視社会であったことがわかる。しかし当時のわれわれには、ソ連という国家で実際に何が起こっているかを、客観的に観察するだけの知識も情報も持ち合わせていなかった。
 戦後の混乱した社会の中では、共産主義の言う、資本による搾取からの解放と言うスローガンは若者にとっては魅力的に映った。資本論にある詳細な経済理論を理解できるはずもなかったが、上から錘りのようにのしかかる世の中の仕組みを吹き飛ばすには、恰好な理論だったような気がする。
 しかし身近に何人かの共産党員もいたが、彼等と革命について議論したと言う記憶はない。彼等は「赤旗」を配るとか、読書集会を開くなど党員としての地道な普及活動をしていたのだろう。ただ私の知る活動家の何人かは、路上で古本を売っている者、商店街の看板や広告を手掛ける者、町工場で油まみれになって働いている者など、どちらかと言えば、社会の底辺で暮らしている者が多かったような気がする。
 元高校の教師をしていたと言う共産党員の、謄写版業者に会ったことがある。その人は裏長屋の片隅で、黙々とガリ版をきっていた。学校を辞めた理由を聞いてみると校長と喧嘩したからだと言う。その人が校長に、どんな「たんか」切って辞めたかまでは聞かなかったが、その暮らしを考えれば、じっと我慢して教師を続けていることもできたのではないだろうか。しかしそれをしなかったのは、共産党に何らかの希望を持っていたのか、あるいは時代の趨勢だったのか、持ち前の強い抵抗精神がそうさせたのか、それは今でもよく分らない。

 当時、占領軍は大胆な改革を次々に打ち出していた。改革の目玉としては、民主憲法の制定、学校改革、農地解放がなどある。なかでも農地解放は、農村の土地所有の関係を抜本的に改革するもので、不在地主はもちろん、大土地所有者、小地主の土地も、その大部分を本来の耕作者である小作農に払い下げるべしと言う画期的なものだった。
 これによって長年続いてきた地主と小作農の関係は大きく変わり、農民の多くが地主の収奪から解放されることになった。
 農地解放によって、東北地方の大地主が凋落してゆく様子は、アメリカのジャーナリスト、マークゲンイの「日本日記」に詳しく記されている。
 農地解放は、占領軍の強力な力によって行われた改革である。このような理想主義的で大胆な改革は、今後、資本主義の世の中では二度と行われることはないだろう。
 戦後を代表する農地解放は、零細な小作農による下からの改革でもたらされたものはないが、結果的には、共産主義が目指す改革とかなり近いものがあったと言えるのではないだろうか。

丸山一彦先生のこと

 敗戦後の街の風景が少しずつ変わり始めた頃、教員室の顔ぶれにも、ようやく新しい風が吹き込んできた。新たに赴任してきた丸山一彦先生は、文理大を出て間もない新進気鋭の教師で、戦前からの居残り組とは全く違う雰囲気を持っていた。専門は国語だったが、当時時代の先頭を走っていた学者、評論家、作家、などの考え方を積極的に紹介し、生徒たちの人気を集めた。
 また人柄も温和で、教師と言うより、兄貴分のように生徒に接していたのも好感がもたれる要因の一つだったかも知れない。
 ここからは丸山鉄也ことボーイング先生と区別するために、丸山一彦先生を愛称の「彦さん」と呼ぶことにする。
 中学五年なると、多くの生徒が本を読むようになった。知識に対する好奇心の芽生える年齢でもあったが、戦後という混乱の時代をどう見通し、どう生きるべきかというテーマも、読書好きな学生たちの心を捉えていたような気がする。
 思い付くままに挙げれば阿部次郎の「三太郎日記」倉田百三の「出家とその弟子」西田幾太郎の「善の研究」、ルソーの教育論「エミール」など、他にも難解な哲学書や物理学の本を読みあさる者もいた。
 授業の方にも新たに哲学史と言う時間が設けられた。それを最初に担当したのが丸山一彦先生こと彦さんだった。
 哲学史と言えばまずギリシャ哲学から始まる。万物の根源を水とみたイオニヤの哲学者タレスタレスに続く自然哲学者の系譜には、万物流転のヘラクレイトス、原子論のデモクリトス、ゼノンの名が頭に浮かぶ。しかし授業がどのあたりまで進んだかは、残念ながら憶えていない。
 哲学というのは実用とはおよそ無縁な学問だが、彦さんの授業がわれわれに、ある種の新鮮な刺激を与えたことはたしかである。
 彦さんの話で印象に残っているのは、二つの焦点をもつ楕円の話である。二焦点の話は花田清輝の「復興期の精神」にあるもので、人間には白と黒、天使と悪魔、科学と呪術など相反する二つ焦点があり、それを同居させている。一つの焦点しか持たない円は他の焦点を無視して成り立つもので、矛盾を合わせ持つ楕円こそむしろ正常な形であると言うものだった。西田幾太郎の言う絶対矛盾的自己同一もあるいは、楕円の考え方と、響き合うものがあるのかも知れない。
 彦さんのよいところは、成績の上下に関係なく生徒に接したことである。成績という数値の価値観から離れると、教師は自分の感性で生徒と接することになる。その点が戦前の教師と大きく違うところだろう。
 彦さんは、成績が悪くても詩や小説に関心をもつ生徒には、心を開いて友だちのような付き合い方をした。それが自然にできた数少ない教師の一人だった。
 私が彦さんと親しく付き合うようになったのは、彼が主催する詩話会に入ってからである。その会では、高村光太郎三好達治萩原朔太郎などの詩を読み、またそれぞれに持ち寄った詩について侃々諤々、好き勝手な意見を述べ合った。そこでは詩に限らず、戦後に浮上した坂口安吾の「堕落論」、中年男女の行きずりの恋を描いたフランス映画「逢引」なども話題となった。
 彦さんには個人的にも随分世話になった。ある夜のこと、彦さんから突然電話があり、「今日は宿直だから、学校までこないか」と誘われ、二人で徹夜で話し合ったことがある。その時何を話したかはまで憶えていないが、尊敬する先生の呼び出しに、大いに感激したことがある。
 その後、先生から日夏耿之介の「明治大正詩史」や江戸の俳人与謝蕪村を近代的な抒情詩人として位置づけた萩原朔太郎の本などを読むように勧められた。彦さんが、加藤秋邨主催の句誌「寒雷」の同人として、熱心に俳句づくりに取り組んでいた頃である。教師時代の彦さんの俳句は、後年の句集「無弦琴」に収録されている。
 詩人、日夏耿之介には、不思議に親近感がある。法政大学一年の時、学園祭で上演した芝居台本の初めに日夏耿之介訳のアラン・ポーの詩「大烏」より「そは凄涼な夜半なりけり…」の一節を借用したことかあったからだ。中身は失恋に悩む主人公を、伯爵や召使たちがそれぞれに次元の違う荒唐無稽な論理を駆使して笑いのめす話である。その喜劇の最後は全員が幽霊だったで終わる。そういえば彦さんもよくポーの話をしていたことを思い出す。
 先生のポーの話で印象に残っているものに「黒猫」と言う短編小説がある。妻を殺した男が、完全犯罪をもくろみ、その死体を壁裏に隠す。尋ねてきた刑事が、部屋の中を捜索するが、不審な点がないので帰ろうすると、男は自分の完全犯罪を自慢するかのように壁を叩く。すると壁の裏から妻の飼っていた黒猫の声が聞こえ、犯罪が露見する。男は妻の死体を隠した時、壁の隙間に猫も一緒に塗り込めていたのだ。
 人にはいろいろな読み方があるが、彦さんは、その小説には、一見合理的な知性(犯罪)の背後にある得体の知れない不気味なものがよく書かれていると言う。黒猫に象徴される不気味さはとは、戦後、一転して民主主義と言う壁でわが身を塗り込めた教師たちの心に潜む黒猫を指していたのかも知れない。

教師たちの戦後3

 中学五年になってからも、鉄拳教師、丸山鉄也先生は、相変わらずクラスの担任を続けていた。その丸山先生ことボーイングも、この時期になるとさすがに態度を変え始めていた。教師のなかには、生徒に対して妙な丁寧語を使い始めた者もいたが、さすがにボーイングには、それほどの豹変はできなかった。同じ関係修復でもボーイングにはボーイングとしてのやり方があったのだろう。
 ボーイングのクラスで学校の演劇祭にかける台本を募集した時のことである。応募したのは私と山本の二人だったが、ボーイングは、何故か私の台本を採用した。「霖雨」(ながあめ)と言う私の台本は、妾腹の子が、尋ねてきた友達相手に鬱屈した気持ちを語ると言う、ただそれだけの話だが、台本だけを見れば、山本鉱太郎の方が会話の運びも達者でよく書けていたように思う。
 私の台本が選ばれた理由を強いて挙げれば、後年旅行作家となる山本の書いた軽演劇風の台本には、戦後と言う時代の重苦しい影が感じられなかったからだろうか。 そう言えば、たしかに霖雨という芝居には救いが無い。主人公の中田家次にも、マントを肩にぶらっと訪れる友人、馬場弘彦の芝居にも、最後までメランコリックな影がつきまとっていたような気がする。しかし、それが選ばれた理由とはどうしても考えにくい。
私には、私が選ばれた訳は別にあったような気がしてならない。本当の理由は、ボーイングが馭し難い私に対して、彼なりの仕方で、歩み寄りを示そうとしたのではないか。そう思われてならない。

 しかしボーイングの私に対する戦時中の度を越えた身体的な仕打ちは、今でも心に深く棘として残っている。

教師たちの戦後2

 当時、私の周りにいた優等生のなかに、成績の落ちた生徒が数人いたことは事実である。もちろん、一方には、成績も落さず、読書にも熱心な生徒も少なくなかった。記憶に残るところでは、藤井陽一郎、市川靖郎など名を思い出す。努力家で物理学の古典などをよく読んでいた藤井は、後年、大学の教師になるが、当時は、私とは最も親しい友人の一人だった。市川は、校長の息子で、特別、勉強熱心だったと言う印象はないが、成績は常に上位にいた。彼は、学校の勉強以外に、絵や文学にも関心を持っており、彼の書いた新感覚派風の作文や大胆な色彩構成の夕焼け風景は忘れられない。その点でわれわれ悪童どもと、ある種の共通するものを持っていたような気がする。
 敗戦後二年を過ぎる頃から、教師と生徒の間の関係も目に見えて変わり始めた。
 戦前から引き続き学校に留まった教師の間にも、少しづつではあるが、私を含めた悪童たちと、なんとか折り合いをつける必要があると考える教師も増えてきた。
 授業を円滑に進めるためには、どうしても悪童との関係を修復しておく必要に迫られたからである。
 当時、生徒たちのなかには、授業を無視して勝手にずるける者もいたが、最も厄介なのは授業中に教師を困らせるような質問を持ち出す者が少なからずいたことである。一種の授業妨害である。彼等は、授業に関係のない哲学書や最新の批評論文から片言雙句を引き出し、それを種に議論を吹きかけては、授業の攪乱を図った。たとえば「共産主義は何故悪いのか」とか「サルトルの言う自由とはどんな自由か」かなど、専門の研究者でも即答できないような質問を投げかけては教師を困らせた。教師にとって彼等は、しつこい虻のような存在でもあったのである。

教師たちの戦後

 敗戦後二年が経ち、学校の空気も大きく変わり始めた。敗戦の混乱は、一時的にせよ、生徒たちに、鉄の鎖から解放されたような自由を与えた。しかし教師にたちにとって敗戦と言う経験は、想像を絶する重荷として意識されていたに違いない。なぜなら、教師の多くは敗戦の混乱で「師」としての尊厳をすでに失い、誰もが、その立て直しに苦慮していたからである。
 教師の多くは校則を無視する生徒がいても、ただ戸惑うだけで、それを制止するだけの力も気概も失っていた。
 唯一の救いは、半数の生徒が、大学受験を目指していたことである。少なくとも彼等に対しては、教師は受験に必要な知識、たとえば英語、国語、数学、歴史などを教えることを通して、一定の役割を果たすことができた。しかし他の半数は、文学や絵画、演劇、遊びなどに熱中し、学校の授業にはあまり関心を示さなくなっていた。
 教師としても、本来の授業に不熱心な、遊芸のやからを、どのように扱ったらいいか迷っていたはずである。教師の立場からみれば、彼等を通常の授業の枠のなかにもう一度引き戻すか、排除するかのいずれかしかない。そのためには生徒の仕分けが必要になる。
 ある日、職員室で一人の教師に「あいつと付き合っているとろくな者にはならない」と注意されたという友人がいた。「あいつ」とは私のことである。その友人から、その報告を聞いて、私にはすぐに職員室でひそひそ話をする数人の教師の顔が浮かんだ。戦時中、節のある竹の棒で、出来の悪い生徒の頭を小突いていた谷津先生、物理の鈴木先生ボーイングこと丸山鉄也先生なら、いかにも言いそうなことだと思った。
 しかし考えてみれば、何人かの教師が私を悪者に仕立てたのも無理もなかった。教師にとって生徒の善し悪しを決める唯一の基準は、昔も今もあくまで学校の成績である。