教師たちの戦後2

 当時、私の周りにいた優等生のなかに、成績の落ちた生徒が数人いたことは事実である。もちろん、一方には、成績も落さず、読書にも熱心な生徒も少なくなかった。記憶に残るところでは、藤井陽一郎、市川靖郎など名を思い出す。努力家で物理学の古典などをよく読んでいた藤井は、後年、大学の教師になるが、当時は、私とは最も親しい友人の一人だった。市川は、校長の息子で、特別、勉強熱心だったと言う印象はないが、成績は常に上位にいた。彼は、学校の勉強以外に、絵や文学にも関心を持っており、彼の書いた新感覚派風の作文や大胆な色彩構成の夕焼け風景は忘れられない。その点でわれわれ悪童どもと、ある種の共通するものを持っていたような気がする。
 敗戦後二年を過ぎる頃から、教師と生徒の間の関係も目に見えて変わり始めた。
 戦前から引き続き学校に留まった教師の間にも、少しづつではあるが、私を含めた悪童たちと、なんとか折り合いをつける必要があると考える教師も増えてきた。
 授業を円滑に進めるためには、どうしても悪童との関係を修復しておく必要に迫られたからである。
 当時、生徒たちのなかには、授業を無視して勝手にずるける者もいたが、最も厄介なのは授業中に教師を困らせるような質問を持ち出す者が少なからずいたことである。一種の授業妨害である。彼等は、授業に関係のない哲学書や最新の批評論文から片言雙句を引き出し、それを種に議論を吹きかけては、授業の攪乱を図った。たとえば「共産主義は何故悪いのか」とか「サルトルの言う自由とはどんな自由か」かなど、専門の研究者でも即答できないような質問を投げかけては教師を困らせた。教師にとって彼等は、しつこい虻のような存在でもあったのである。