目に見える医療と見えない医療

  私が医療について書こうと思ったのは、長い間、映像の仕事を通して係わってきたからです。しかしそれだけではありません。漢方の治療学が通常の医師が行う医療とは異なり、極めて人間的なものに思えたからです。
 医師が患者と向き合うとき、医師の目に映るのは、病んだ患者の身体です。身体は物質ですから、見方によっては精巧な機械とみることもできます。
 医師は機械を修理するように患者の不具合の原因を探り、その原因を取り除くために病気の状態に応じて、ある時は手術を施し、またある時は薬を投与して操作します。
 それで病気が改善すれば、医師と患者の関係は「めでたし、めでたし」で円満に終了することになります。
 しかし、病気が長引くか、除々に悪化していく場合、医師は懸命になって次の手を考えるはずです。しかしそれでもなお改善が見られないと時は、医師は何を手がかりに治療を進めるのでしょうか。
 あくまで患者の目に見える部分、各種の検査データにこだわる医師は、データの異変を手がかりに患者の身体機能の調節に全力を尽すでしょう。しかし結果が得られないとすればそこから先にあるには、患者にとっても、また医師にとっても、見えない暗い未知の世界です。
 その場合、医師が診ているのはあくまでも患者の物理的な身体です。たしかに病気は、痛みや不快感
として患者の身体症状として顕れますが、長引く病気は、身体だけの不調和だけに起因するのではありません。

 重い病気には、患者の心の歪みが関与していることが少なくないといわれています。心に係わる事柄は検査データのように数値化することは出来ません。その背後には、患者の社会生活があり本人にしか分からない情動がうごめいています。ですから通常の医療のように身体に局限された医療では、さらに深い心の原因にたどり着くことは出来ないようにに思われます。なぜなら人間はもともと心と体が一体化した存在だからです。
 現行医療の趨勢は、身体を基本に、検査も含めあくまで科学的な方法に基づいたみえる医療が中心になっています。そのためどうしても見えない、普遍化できない心の問題が軽視されることになります。しかし重い病気の多くは心の問題と密接に係わっています。したがって、心の歪みを無視した医療では、どうしても
治療手段に限界あります。 
 心の問題は、多くの医師にとって見えない医療ではないでしょうか。なぜならそれは患者一人ひとりの心理や生活背景という個別的な世界と密接に結びついているからです。医療を目に見えるものにするためには
医師と患者の人間的コミュニケーションによって、理解を深めることが不可欠です。


 通常、医師と患者の間は社会的にもまた治療情報についても上下の関係があります。特に情報の専門性は両者を隔てる大きな壁になっています。また医師が語る専門用語による病気の解説が目の前の病気の正体を正確に反映しているとは限らないということもあります。そのため患者にとって治療の全体像がますます見えにくくなってきます。
 患者は自身の痛みや不具合から病気を判断し、医師に同意を求めますが、双方の意見はしばしば食い違うことも珍しくもありません。
 それをどのように克服するのか。身体を越えて心の問題に踏み込む為には、上下関係にある医師と患者を平等な人間対人間の関係に措き直す必要があります。もちろん、それは口で言うほど簡単ではないでしょう。
 お互いに見えない医療を、どのように見えるものにするかは人間としての相互理解によってしか実現することは出来ないものです。