戦後の学校3

 旧制中学も五年になると、生徒たちは一段と大人びてくる。教室の雰囲気も次第に進学組と卒業組とに色分けされ、一流大学を目指す進学組のなかには授業が終ると、東大受験を目指す寺田實のように受験勉強のために駆け足で家に帰る者、また塾に直行する者、受業中にひたすら受験用参考書を読みふける者もいた。
 一方、卒業組やほどほどの大学を目指す者は、何かにつけ教師に対して対抗的な姿勢を示すようになった。
 その年、従来の学校制度が大巾に変わり、旧制の高校は新制大学になり、中学校は三年制に、旧制中学は三年制の新制高校に変った。旧制中学の五年生は、本人が希望すれば全員、大学の受試資格を持つ新制高校の三年に編入されることになった。そのため五年の生徒には、たっぷり一年以上の余裕が与えられることになる。
 生徒たちは、それぞれに個性を発揮するようになり、受験勉強の傍ら、絵を描く者、読書に熱中する者、芝居に熱を挙げる者、ダンスホールに入り浸る者など、各人各様に思わぬ動きを始めるようになった。
 卒業組の一人に、突然、哲学書読み始めた男がいた。加藤と言う名の八百屋の倅で、必ずしも学校の成績がよかったわけではないが、朝、学校にくると机の上に分厚い哲学書を広げて黙々と読んでいた。多分、京都大学系の誰かが書いた「哲学概論」だったと思うが、定かではない。
 中身は一読して意味のとれるような文章ではなかったが、そんなものを読んで何かいいことでもあるのか聞いても、本人はただにニャッとするだけで返事は返ってこなかった。
 何回か読んでいれば、そのうち意味が分ってくると思っていたのだろうか。しかし当時の哲学の本は、初めから理解を拒否するような独特の専門用語で書かれてものが多く、書いている本人も難解だからこそ、哲学は奥深いのだと考えていた節があったような思えてならない。
 只一度、本人がむきになって反論したことがある。彼が自然哲学と言う言葉を口にした時、教師の一人が「君、自然科学と言う言葉はあるが、自然哲学と言う言葉はない」と言ってたしなめたことがある。
 一瞬、加藤は顔を真っ赤にして「自然哲学と言う言葉はあります」ときっぱりした口調で反論した。普段、どちらかと言えば吃りがちに喋る男だったが、この時ばかりははっきりとした口調で切り返した。彼の読んでいた本にそう書かれていたからである。
 どちらが正しいかどうかは言うまでもないが、時として教師の教える知識が、単に記号を教えるだけの、如何に表面的なものかを、ふと垣間見たような気がしてならない。
 世の中には、教師でも知らないことは山ほどある。だから知らないということは恥ではない。たしかに記憶の量は多いほど脳は活性化され、利便性を増すが、当たり前と思っていた言葉の中身が、ある日「神」天皇が突然人間に変わり、地動説が天動説に変ったような場合、記憶されていた言葉の知識は、その意味を失うことになる。実際、敗戦を境に教師の多くが言葉を失った。
 時代と共に移り変わる言葉の変化に、如何に柔軟に対応できるかも、教師の人間的教養と決して無関係ではなかったはずである。

戦後の学校2

 教師からの圧力が徐々に薄れるにつれ、生徒はしばしば規則を無視した行動をとるようになった。無断で休む者もあり、授業を無視して教室内を勝手に歩きまわる者もいた。
 ある時、数学の授業中に私を含めて五、六人生徒が窓から一挙に脱出したことがある。脱出組は、教室の縁に沿って体育館まで逃げ、そのうち何人かは、さらに奥の剣道場に駆け込み黒板の裏に隠れた。
 さすがに教師も異常事態を放棄できず、隠れていた生徒全員を探しだし、職員室に連行した。逃亡した生徒は職員室の床に正座させられ、説教を食らった。なかには問答無用とばかり平手打ちを食わす教師や「またこいつらか」と生徒の頭を靴で蹴とばす教師もいた。多分、その時が教師による最後の暴力沙汰だったような気かする。
 教師の本音としては、勉強嫌いな生徒に対しては、注意するよりただ成り行きに任せるしかないと諦めていたように思えてならない。
 戦中戦後を通して、ほとんど態度の変らなかった教師の一人に歴史を教えていた戸倉先生がいる。どちらかといえば、飾らない人柄で、その表情には、いつも世間の風潮から一歩身を引いたようなシニカルな微笑をたたえていた。もちろん、出来の悪い生徒には厳しかったが、だれ、かれと生徒を差別するようなことはなかった。式典で笑った時には大いに怒られたが、それ以外に先生からお叱りを受けた憶えはない。
 歴史の時間になると、戸倉先生は、いつも五、六冊の本を抱えて教室に入ってきた。そのなかの特に分厚い一冊は、H・G・ウエルズの「世界文化史大系」の原書だった。ウエルズには「世界文化史概観」という広く流布している新書判もある。ウエルズはまた映画にもなった「火星人襲来」でもお馴染みのイギリス人作家である。
 戸倉先生が戦時中でも、戦争に荷担するような雰囲気を特に見せなかったのは、歴史を通じて皇国史観とは別な、リベラルな教養を身につけていたからではないだろうか。
 戦争との関連を強いて挙げれば、第一次世界大戦の頃に活躍したドイツ巡洋艦エムデンが英国海軍の包囲網を次々に突破して逃避行を続ける物語を思い出す。それを友邦ドイツへの称賛とみる向きもあるが、私には、遠い昔のユリシーズの帰還物語でも聞くような、当面の戦争とは全く次元の異なる冒険談として聞いていたような気がする。つまり戦時中に繰り返し語られていた軍神神話とは似て非なるものだと言う意味である。

その後


 夏休みが終わると、相変わらず戦闘帽を被り、何事もなかったように学校へ通い始めた。すでに奉安殿は固く閉ざされ、敬礼をする者もなかった。
 しかし一歩職員室に入ると、そこは異様な空気に包まれていた。教師たちはあくまで冷静に振る舞おうとしていたが、普段と違い、言葉も少なく、出来るだけ生徒と目線を合わせないようにしているかのようにみえた。
 敗戦は、否応なく教師たちに価値観の変更を迫った。しかし長年、上からの指示、命令を忠実に履行してきた教師たちには、戦時中の皇国史観に代わるべき新たな価値の枠組みが示されない限り、動きようがなかったのではないだろうか。
 人は誰でも、長期間に亘って維持してきた思想、信条を一夜にして覆すことは出来ない。しかし教師という職業は、生徒の問いに対して常に答えを求められる立場にある。
 しかしそれだけではない。もし教師が無節操に態度を変えれば、人間としての品位を失うばかりでなく、生徒たちにも混乱を与えかねないからだ。
 とはいえ、教師にも専門職という逃げ道がある。軍事訓練を教えていた配属将校は別として、たとえば数学の教師であれば、方程式の解き方を教える技術職に徹すれば、それでもよいわけである。
 教師たちは、それぞれに一抹の不安を抱きながら教壇に立った。これまで自分を支えてきた軍国日本と言う巨大な秩序が崩れ去り、代わるべき思想も混沌としたまま、教壇に立つことを余儀なくされた教師たちの戸惑いは、筆舌に尽くし難いものだったに違いない。その思いをありありと態度に示していたのが斉藤先生の授業だった。
 物理を担当していた斉藤先生は、教室に入るってくると、生徒に背を向けたまま、何事か独り言のように呟きながら、黒板に張りつくようにして、物理の記号や数式を書き連ね、時間になると振り返ることもなく、生徒たちの騒ぎをよそに、消えるように教室を出ていった。当時すでに初老の域に達していた先生の後ろ姿は、思い返せば、あまりにも寂しそうだった。敗戦という現実は、斉藤先生に限らずすべての教師の肩に重くのしかかっていた。
 もう一人、定年を過ぎてから時間講師として漢文を教えていた白田先生の場合を見てみよう。先生は、軍国日本の信奉者で、大和魂の優位を語り、敗戦近くまで鬼畜米英に対する復讐を説いていた。先生はよく「臥薪嘗膽」言う言葉を口にしていた。堅い薪の寝て恨みを思い出し、苦い熊の膽を嘗めて恨みを忘れてはならないと言う中国の呉、越の争いから採ったもので、戦前にはよく使われていた言葉である。
 その白田先生が、戦後日ならずして百八十度、態度を変えたことを多くの生徒が目撃している。マッカーサーが厚木飛行場に下り立ってから間もなくのことである。昨日まで鬼畜米英一辺倒だった先生が突如、マッカーサー元帥は、史上稀にみる偉大な将軍であると言い出したのである。その判断が正しいかどうかは別にして、白田先生の言葉を唖然として思いで聞いていたのは私だではなかったはずである。
 人間とはこうも変ることができるものかと言う驚き、それが私の受けた率直な感想だった。そしてこれほど見事に、生徒の目の前、変わり身を見せたのは、教師のなかで白田翁ただ一人だけである。
 一般に相反する時代への適応は、長い助走期間が必要となるが、外部からの何等の力による強制もない段階で、自らの意思で転向を語ることになったのはどのような理由によるものだろうか。
 後知恵で考えてみれば、マッカーサーによって昭和天皇が死刑を免れ、形の上で萬世一系の皇統が維持されたことと決して無関係ではなかったようにも思える。
 白田先生が、一人ズック鞄を背負い、前屈みの姿勢で校門を出て行ったのは、それから間もなくのことだった。

敗戦の日

 中学三年の夏、1945年、昭和二十年八月に敗戦の日を迎えた。ラジオの臨時放送で、天皇が不明朗な声で敗戦を告げると、家の中が一瞬、鎮まりかえった。父は目に涙を浮かべ、母は押し黙った。昨日までの張り詰めた思いは、嘘のように消え、言いようのない虚脱感だけが残った。
 日本はまだ負けたわけではない。戦いはこれからだ。一億が玉砕するまでは戦争は終わらないと抗弁する者もいた。
 すでに広島、長崎に原子爆弾が投下され、多くの死傷者がでたと言うニュースは伝えられていたが、原爆は白い布を被っていれば大丈夫だ言い張る者もいた。しかし私の心に去来する敗戦の印象は、全く別なものだった。
 敗戦の日、真夏の空は、どこまでも高く、抜けるように蒼かったと言う記憶が私にはある。そう言えば、同年代の作家の城山三郎もテレビで同じような感想を語っていた。もちろんその日が雲一つない晴天だった言うわけではないが、森閑とした蒼空の下を涼しげな川風が、音も無く流れていく風景が今でも私の脳裏にくっきりと焼きついている。
 昨日まで上空を旋回していたアメリカの戦闘機の影はすでになく、重く垂れこめていた空気が一挙に崩れ落ち、頭上には蒼空だけが残った。
 戦争は終わったが、飢餓は相変わらず続いていた。母はいつものように輪切りにしたサツマイモを干し、私は渡良瀬川へ水泳に出かけた。

将校

 戦時中、軍事訓練を担当していた配属将校の一人に岡崎中尉がいた。中尉は、足利の北にある北郷村の出身で、見るからに軍人らしいがっしりした体つきの男だった。
 彼は、主に軍隊式の隊列の組み方や三八式歩兵銃の扱い方などをわれわれに指導していた。その岡崎中尉に、私には忘れられない仕置の思い出がある。
 私が何気なく奉安殿を通り過ぎようとした時である。何処からともなく岡崎中尉が現れ、大声で私を呼び止めた。当時奉安殿は、神、天皇が鎮座する場所であり、誰も一礼せずには通り過ぎることは許されなかった。
 中尉は、私の前に立ちはだかると、「畏くも天皇陛下の前を素通りするとは何事だ」大声でまくし立て、きなり頬を二、三回平手打ちにした。私が地面に転倒すると、今度は目の前の石を指差し「拾え、石を両手で頭の上に揚げるんだ」言い放った。
 いわれるままに、私が石を両手で頭の上に差し上げると「畏くも天皇陛下に対して無礼を働くことは万死に値する」と言い残してその場を立ち去った。たまたま私の立った場所が職員室からよく見える場所だったので、腕のしびれるのを我慢して、しばらく立ったままでいた憶えがある。
 奉安殿は、天皇、皇后の写真が常時収納されている場所で、全国の学校にあり、神国日本の象徴として機能していた。今の憲法でいう象徴天皇制とは異なり、すべての力を一手に握る文字通り権力の源泉である。
 天皇、皇后の写真は、式典の度に講堂の壇上に飾られ、重々しい口調で式辞が述べられるが、私には、そうした式典が何故か滑稽に思えてならなかった。天皇に対してそれなりの敬意を持っていたはずの私だったか、その笑いが何処から湧き上るってくるのか、自分でもよく分らなかった。儀式もあまりに形式化されてくると形式の持つ特有の美と、反面の滑稽さが合わせ鏡のように写しだされてくるのかも知れない。

丸山先生という人

ここで話を丸山先生に戻そう。先生とは国語教師として、また中学一年から五年までのクラス担任として顔を突き合わせていた間柄である。
 先生は、ようやく三十路を越えた頃だったろうか。見るからに、水母のような水気の多い肥満体質で、厚みのある肩の上に載る入道のような坊主頭は、みる者に病的な印象を与えた。その顔は蒼白く、いかにも神経質そうで、太い黒縁の眼鏡の中からいつも猜疑心が凝縮したような目を覗かせていた。
 出合った最初の一年はなに事もなく過ぎた。しかし二年になる頃から生徒に対して暴力を振るうようになり、鉄拳制裁は度を越えてエスカレートしていった。
 生徒たちは丸山先生と言わずボーイングとあだ名で呼び捨てにした。それはB29の襲来と期をいつにしていたように思う。生徒を殴る教師は他にもいたが、彼の生徒に対する殴り方は尋常ではなかった。
 通常「いじめ」は、弱い奴、のろまな奴、できの悪い生徒に向けられるが、ボーイングは、特に虫の好かぬ奴には容赦なかった。その虫の好かぬ奴の筆頭にいたのが私だった。 軍人勅諭に「上官の命令は朕の命令と心得よ」と言う一節がある。軍隊においては一切の口答えは許されない。それは朕、すなわち「神」の言葉によって暴力が保証されると言うことを意味する。当時軍隊では、よく知られているように、下級兵士に対する暴力は日常茶飯事に行われていた。
 学校では生徒に対して教師は上官に当たる。ボーイングは成績が悪いといって私を殴り、反抗的だという理由で私を殴った。しかし いかなる理由であれ、折に触れて私を殴ったのは、両者の間が、性格的に水と油の関係にあったとしか思えない。もちろん殴られたのは私だけではなかったが、教室の後ろに張られていた〇×表をみると、私の×が最も長く数が多かったことを今でも思い出す。
 当時私は、そのことを親に告げ口もできず、四六時中便秘や腹痛に悩まされていた。それでも学校を休むこともせず、殴られるのを覚悟で毎日学校に通っていた。
 ボーイングの制裁は、やがて拳から竹刀に代り、ますます威力を発揮するようになった。竹刀で殴られると、頭に5センチほどの瘤ができる。その瘤が幾つも並ぶことも少なくなかった。
 竹刀は一週間に数度の割合で襲ってきた。しかし私にも捌け口があった。強い者が殴れば、その矛先はさらに弱い者に向けられる。
 ボーイングに最も多く殴られ、事あるごとに侮辱された私は、腕力に自信があったこともあり、休み時間に、周りにいた友だちの頭を意味もなく殴り、腕をねじ上げた。なかには泣き出す者のもいたが、何とか休み時間の間に納った。しかしそれが発覚すると、またボーイングに嫌と言うほど手痛い仕打ちを受けた。
 ボーイングにしごかれた者は、もちろん私だけではない。同時代の多くの卒業生の間で今でも語り草になっているところをみると、如何に彼が常軌を逸した教師であったかが分るのではないだろうか。

戦時下の足利中学校

 私の通っていた旧制足利中学は、市の北のはずれ、両崖山麓にあった。渡良瀬川畔のわが家からは歩いて30分ほどの距離である。
 街中を抜けて、一面に稲田が広がる本城田圃を真っ直ぐ北に進み、途中、山沿いの道を左に折れると校門が見えてくる。校門の正面、百メートルほど先に昭和天皇の写真が納められた奉安殿があった。左手には校庭が広がり、右手に大正の風情を遺す洋風の講堂があった。
 校舎は、講堂を先頭に背後の中庭を挟んで左右しシンメトリーに配置され、奥に体育館があり、その先は渡り廊下で柔道場、剣道場へと続いていた。
 そこで私は、因縁の教師、丸山先生と出合うことになる。その件については次節で詳しく述べることにしたい。
 B29が日本各地に飛来するようになると、一級上の三年生以上の生徒は、軍需工場に動員されるになり、空いた校舎の一部は、モンペ姿の女子工員が働く飛行機の部品工場として利用されるようになっていた。
 残った生徒たちは、勤労奉仕と言う名目で、しばしば近郊の村の農作業に駆り出された。学生たちは、現地に着くと四、五人のグループ分かれ、各農家に出向いて田植えや稲刈りなど、季節に応じた仕事を手伝うことになる。
 奉仕活動は、午前十頃に始まり、昼休みを挟んで午後四時頃まで。時間は短いようだが、学生たちもよく働くので、それなりに評判もよかった。
 当時の農村は男手がほとんどなく、家にいるのは大抵女、子供、年寄りだった。行ってみると、どの農家にも昭和天皇の写真と若い兵士の写真が飾ってあった。若い農家の嫁が戦地からきたばかりと言う葉書を見せてくれたこともある。
 なかには支那で戦死したと言う息子の写真を見せながら、誇らしげにわが子の死の様子を語ってくれた老人もいた。
 学生たちにとって、勤労奉仕の楽しみは農家が用意する白米のにぎり飯だった。もちろん生徒も弁当を持参していたが、肉体労働の後のにぎり飯は最高のご馳走だった。行く先々の農家が必ずしも裕福だったわけではない。小作農であろう、中には藁葺き屋根が傾きかけた小さな農家もあった。自分では食べなくても、白米のおにぎりを学生たちのために用意してくれたのではないだろうか。