長屋の暮らし

 足利は昔から続く織物の街である。昭和十二年日中戦争が始まってからも、まだしばらくの間は、街には鋸屋根の織物工場があり、至る所で横糸を運ぶ「ひ」の音が響いていた。 街にでるとしばしば出征経兵士を見送る行列に出合うことはあったが、それはあくまでお祭りのような「ハレ」の日の行事の一コマであり、子供の暮らしには戦争の持つ暗い影は全くなかった。
 その頃は事あるごとに大人も子供も提灯行列に駆り出された。提灯を持った群衆が夜の大通りを練り歩き「ばんざい」を唱える声が今でも耳に残っている。
 私の小学校4年は、日本の暦で皇紀二千六百年と言う年に当たる。日本の起源が、神代以来二千六百年目に当たると言う超歴史的な時期に遭遇したことに、子供ながら、なにか晴れがましい思いをしたことがある。
 その時、私の作った詩の書き出しは次のような言葉で始まる。
  いまぞ迎える日本の紀元は二千六百年
  ああ僕らは小学生 お国のために 心と体を鍛えましょう

 二行目以下は必ずしも正確ではないかも知れない。その詩が文集に載った記憶はあるが、文集そのものが失われてしまったので、今となっては確認する術はない。
 当時小学4年生だった私には、もちろん二千六百年と言う意味がわかるはずもなかった。ただ子供心に、なにか素晴らしいことだと言う感覚はだけはあったような気がする。
 その頃、私の家は一日中機織りの音が響いていた。鋸屋根の五十坪ほどの工場に二十台ほどの織機を並べ、七、八人の住み込みの女工さんと近所の主婦を合わせて十人ほどが主に足利名産の銘仙を織っていた。
 住み込みの女工さんは、十五、六から二十歳くらいで、朝七時から夜八時近くまで働いていた。大半は年季奉公で、親に連れられてやってきた。年期奉公の場合は、三年なら三年分、五年なら五年分の契約金の大半を親が受け取り、女工さんには月々お小遣程度のお金が渡されるだけだった。
 女工さんの居住環境は、極めてお粗末で、ウナギの寝床のような細長い八畳ほどのスペースに七、八人が重なるように寝ていた。女工さんの他に男性が二人働いていた。カズどんと呼ばれていた若い男は、荷物の運搬や油だらけになって織機の故障を直す仕事をしていたように思う。もう一人は少し年配の聾唖者で、太郎さんと呼ばれていた。太郎さんは、しゃべれないと言うハンデはあるが、工場内のどんな仕事でも器用にこなしていた。 私の母も時々工場に入り、食事を用意する時間を除いて、女工さんたちと一緒に夜遅くまで働くこともあった。
 住み込みの女工さんの多くは、栃木県東部の田舎からきていた。真岡、益子、茂木などの名をよく耳にしていたが、どの娘が何処からきたかまでは特定できない。当時の農村は一般に貧しく、娘たちが年頃になると町に働きに出るのが当然と考えられていた時代だった。
 若い女工さんの仕事は、最初は子守から始まる。当時は「産めよ増やせよ」時代だったので、どこの家でも大抵は五、六人の子供がいるのが普通だった。街に出るとさらに小さい十二、三歳くらいの女の子がよく子守をしている姿を見かけた。