当時はまだ、戦争の足音は遠い霞の彼方にあり、足利の織物も好景気が続いていた。 春になると、冬の間、川面を吹き荒れていた赤城おろしも収まり、川端の桜も薄紅色の彩りをみせはじめる。
 桜の季節になると、わが家では女工さん共々、家中で花見に行くのが習わしだった。土手下のわが家から、長屋の路地を抜けると目の前にわたらせ橋あり、そこから川筋に沿って花見のメッカ足利公園までは桜並木が切れ目無く続いていた。
 目指す公園は、足利の西の外れにあり、古墳跡が点在する小高い岡になっていた。公園までの砂利道を一キロほど行くと、小さな広場があり、突き当たりに蓮岱館と言う名の料理屋があった。
 裏手にまわると幕末から明治にかけて活躍した日本画家田崎早雲の記念館がある。旧足利藩士田崎早雲は若くして江戸に出て、画を学び、幕末には勤王の志士として活躍した。明治に入ると、足利に帰り、画業に専念して多くの作品を遺した。記念館は早雲の晩年の住居跡である。
 足利公園は、桜が咲く頃になると、市内各所から集まる大勢の花見客で賑いをみせた。柄物の晴れ着をきた若い女工さんの姿も花見の雰囲気を引き立てていた。
 園内の遊歩道を進むと、開けた一廓があり、枝振りのよい桜の下に二、三の茶店が軒を並べていた。
 その中の一軒に「みよしの」と言う馴染みの店があった。花見の時は家中で必ずそこに立ち寄り、トコロテンや団子、ゆで卵などを食べるのがなによりの楽しみだった。
 そこからさらに坂道を登ると、岡の中腹に海軍の軍人らしい人の記念碑があり、実物の爆雷と魚雷が展示されていた。
 岡の上は、当時、御立ちが岡と呼ばれ立ち入り禁止になっていた。御立が岡とは昭和天皇が足利に立ち寄った折、そこから足利市街を眺めていたことの記念として名づけられたと言う。天皇が、神に擬せられていた頃の名残である。