隣家の悲劇

公園の高台に立つと、東西に長い足利市を一望に見渡すことができる。北側に足尾山塊の山襞が迫り、南に蛇行する渡良瀬川が銀鼠色に光ってみえる。市街地は一帯に灰色にくすんだ町並みがつづき、至る所にボイラーの煙突が突き出ていた。当時、林立する煙突は、織物の街足利の活気を顕す象徴とも思われていたが、今にして思えば、それは公害の原風景そのものである。
 当時の足利は、全国的にみても、結核患者の数が最も多い街として知られていた。私が知る範囲でも、結核で亡くなった人が少なくない。目の前の長屋でも靴屋の兄妹が立て続けに結核で亡くなっているし、小学校の頃、旧友の一家でも同級生とその兄が相次いで他界した例もある。
 私が時々、思い出すのは、隣家の工場主の家で起こった悲劇である。その家には五人の子供たちがいたが
短い間に年長の男兄弟が次々に結核で他界し、姉の同級性だった目の澄んだ色白の女の子も二十歳を待たず亡くなっている。
 その家は、その後、別の場所に大きな工場を建てて移っていったが、ほどなく主人夫妻も次々に結核で死んだと聞いている。結核による悲劇と煙突の数は決して無関係ではないはずだ。
 私の家の隣にあった織物の整理工場にもボイラー用の大きな煙突があり、四六時中灰色の煙を吹き上げていた。時には庭にまで流れ込んでくることもあった。そう考えると、わが家で結核患者か一人も出なかったことは、幸運だったと言うべきかも知れない。