戦闘機

織物の街足利に戦争の影響が直接、目に見える形でやってきたのは、それから間もなくのことである。それは軍靴で、無抵抗な虫を踏みつぶすように突然やってきた。
 足利では軍の命令で多くの工場で織機が破壊され、屑鉄として回収された。小学校の校庭にも鉄屑となった織機の破片が山積みされるようになった。その後、鉄屑がどのように利用されたかは不明だが、かなり長い間、野積みになっていた。
 織機が撤去された工場には、小型の卓上旋盤が運び込まれ、市内の織物工場の大半がにわか仕立ての鉄工場に変った。
 わが家でも、昨日まで機を織り、糸を紡いでいた女工さんたちは、慣れない旋盤を操り、ジュラルミンの小さな部品を懸命に加工していた。おそらく戦闘機の部品の一部でも削り出していたのだろうが、本当に使い物になったのだろうか。旋盤の不得意な子は、指先を真っ黒にして黙々とネジ切りに励んでいた。
 仕事の発注元は、当時、陸軍の飛行機を生産していた中島飛行機製作所の下請けである。中島飛行機は足利にほど近い群馬県太田市と隣接する小泉町に大きな工場を持ち、主に陸軍の戦闘機を造っていた。
 足利でも繊維産業が消滅した後は、多くの人たちが、中島飛行機の職工として動員されるようになっていた。
 子供の頃、毎朝、わたらせ橋を渡って中島飛行機に向かう蟻のような自転車の列を、まるで白黒映画の一シーンを見るように今でも鮮明に思い出すことができる。
 その頃、父は小泉町に中島飛行機の下請け工場を持ち、毎日二十キロほどの砂利道を自転車で通っていた。砂利道の夏はうだるよう暑く、冬は凍えるように寒かった。父は冬になると「手袋をしていても、しびれるような寒さが伝わってくる」とよくこぼしていた。
 小学校の六年の頃になると子供たちは、軍用機に強い関心を示すようになる。父の工場のある小泉町には飛行場があり、私も父の工場を足場に、度々、飛行場の見学に出かけた。もちろん中には入れないが、道を隔てた鉄のフェンスのすぐ近くにいつも二十機くらいの戦闘機が並んでいた。それが陸軍の主力戦闘機の隼なのか鍾馗なのか、今の私には判定する術はないが、その頃の私は、はっきりと機種を見分けることができたような気がする。
 戦闘機に限らず兵器には子供の心を惹きつける要素がある。一つは相手に打ち勝つ魔力的な力として、もう一つは高性能な兵器が持つ玩具としての魅力である。