隣組

 その頃本土でも、国民総動員体制が着々と進んでいた。日中戦争の拡大と共に始まる隣組みは、昭和十四年には全国に普及し、臨戦組織としての役割が明確に打ち出されるようになる。
 当時わが家でも月に一度ほど、定期的に常会が開かれるようになっていた。隣組の常会は大抵夜開かれ、毎回、長屋から二十人ほどの女たちが集まってきた。常会での話は主に貯蓄の奨励、国債の割当、生活物資の配給などだった。戦後、紙屑同然となる貯蓄、国債の割り当ては、貧しい長屋の人々にも、半ば強制的に行われていたのではないだろうか隣組みでは、常会のほかに定期的に防火訓練も行われていた。防火といっても消火器ガあるわけでもなく、それぞれにバケツを持ちより、一列に並んでバケツリレーの早さを競う訓練だった。
 そのバケツリレーが、後年思わぬところで役立つことになる。
 忘れもしない、わが家が炭火の不始末で火事になった時のことだ。夜中、目が覚めると工場の屋根一面に炎が這い上がっていた。父は「火事だ、火事だ」と叫びながら火に覆われた壁に、懸命にバケツで水をかけていた。工場の床には、天井の明り取りの硝子が散乱し、足の踏み場もない状態だった。
 弟が外に飛び出し、前の長屋に火事の報せに走った。すると間発を入れず、長屋から一斉にバケツをもって男や女たち飛び出し、訓練さながらの手際のよさでバケツリレーを始めた。そのお蔭で火はみるみるうちに収まり、大火に至らずにすんだのは不幸中の幸いだった。これも隣組みの日頃の訓練の成果である。
 この他に竹槍の訓練なども行われたが、竹槍が実戦に役立つと思っていた者は誰もいなかったのではないだろうか。