戦争の曲がり角

 昭和十七年、1942年、日本海軍はミッドウエー海戦で壊滅的な打撃を受けたことは、今では多くの人に知られている。その戦闘で、日本の機動部隊は、アメリカ艦載機の奇襲をうけて主力空母四隻を失い、事実上、洋上での制空権を失うことになった。
 以後、戦争の拡大が止まり、やがてガダルカナル島からの撤収が伝えられた。しかし当時の大本営発表は全く逆な戦果を国民に伝え、真実は隠された。限られた情報のなかにあって、誰もが日本の勝ち戦を信じて疑わなかった。
 間もなくブーゲンビル島ラバウルが占拠され、多くの島民が、断崖から飛び下りて自から命を絶つなど想像を絶する悲劇が繰り返されていたことなど知る由もなかった。ほどなく硫黄島が占拠され、擂鉢に星条旗が立つと、日本本土も戦場の一部に組み込まれるようになった。
 硫黄島を飛び立ったアメリカの重爆撃機ボーイングB29が日本の各地を空爆するようになってもまだ国民の大多数は勝利を信じて疑わなかった。
 圧倒的な力を持つ蒙古軍が、台風によって壊滅した故事が繰り返し語られ「いざとなれば日本には神風が吹く」と誰もが期待を込めて信じようとしていたのである。
 しかし合理性を欠く神風神話も、ボーイングB29の度々の襲来で、徐々に崩れ始めていた。
 私が初めてB29を目にしたのは、隣町にある太田市中島飛行機工場を大挙して爆撃した時である。私は大勢の子供たちと一緒に渡良瀬川の堤防にかけ上って、B29の編隊を固唾を飲んで眺めていた。九十機ほどの一団が黒い点となって、対岸の浅間山の上空を悠々と飛んで行くのが見えた。
 B29の機影を追うように高射砲が一斉に発射され、上空一面に無数の白煙が次々に炸裂するのが見えたが、B29の編隊は、弾幕のただ中を悠然と飛び続けた。
 その時、それは一瞬の出来事だったが、編隊中のB29二機が突然衝突し、きりもみ状態で墜ちてきた。一機は尾翼の辺りから真っ二つに折れ、もう一機は機体の前方部を大きく損傷していた。機影はみるみる大きくなり、まるで散弾で傷ついた鴨のようにゆっくり回転しながら山の陰に消え、つづいて鈍い爆発音が聞こえてきた。
 B29は高射砲によって撃墜されたのか、日本の戦闘機が体当たりしたのか、それは分からない。もし日本の戦闘機が接近したとしても、それは点のように小さく、視認することは出来なかったからだ。