戦争の曲がり角

すでに日本の劣勢は誰の目にも明らかだったが、地上では、戦意を鼓舞するために各地で竹槍訓練が行われていた。竹槍とB29とでは、比較すること事態、笑止千万な話だが、しかし誰もが竹槍で敵の一人や二人は倒せると信じて訓練に臨んでいた。
 竹槍は、蟷螂の斧の譬えで言えば、実際の戦闘には何の役にも立たないが、精神を奮い立たせる効果はあると本気で考えていたのかも知れない。
 陸軍の三八式歩兵銃もその例外ではない。すでに太平洋戦争では、自動小銃が主流になっていたにも拘らず、日本軍は明治時代に開発された三八式歩兵銃を戦争中ずっと使い続けていた。上級軍人のなかには、兵器の遅れは大和魂でカバーできると、堂々と主張する者も少なくなかった。特に軍の幹部は、本心からそう思っていたのではないだろうか。
 しかしなかには「竹槍戦術は無意味である」と述べる合理的な考えの持ち主もいた。その人は次のように主張していた。「竹槍の練習をする時間あったら、その前に敵の兵器の使い方を学習すべきである」と。
 戦場で敵の兵器を手に入れるチャンスはいくらでもある。敵の兵器を事前に研究しておけば、同じレベルの武器で対等に闘うことができると言うものだ。たしかに言われてみればそり通りかも知れない。もちろんこれで戦闘が有利に展開できるかどうかは別として、当時としては、珍しく理に適った考え方する人だなと思った記憶がある。

 その後、B29は太田市に隣接した小泉町にも編隊で飛来してきた。その時は逆に日本の戦闘機らしい影が、白い煙をあげて一直線に落下してゆくのがみえた。
 太田市と小泉町は足利から二十キロほど離れており、その時もまた、遠く爆弾の炸裂音を聞きながら、私を含めて多くの大人や子供たちは、渡良瀬川の堤防に立って、威圧するような轟音を響かせて上空を飛び去るB29の不気味な姿を眺めていた。
 戦争も末期になると、足利周辺にも頻繁に艦載機が飛来するようになった。戦闘機は低空を飛んでくるので、機影もはっきり見える。大抵の子供たちは、それが何と言う名の飛行機か図鑑を見てよく知りつくしていた。
 思い出すままに名を挙げれば、零戦の敵役と知られるグラマンF6Fヘルキャット、海軍の司令長官、山本五十六が乗る偵察機ブーゲンビル島で撃墜した双胴の戦闘機、ロッキードP38、その他にもP51ムスタングなどの米軍主力の艦載機が縦横に飛びまわっていた。
 敵機がやってくると、足利公園の山頂から機関砲が鳴り響き、無数の弾幕を張る。しかし何故か、その間、日本の戦闘機が姿を見せることはなかった。
 堤防の上から艦載機が白煙をあげて墜ちてゆくのを見たのもその頃である。戦闘機は煙の尾を曳いて、下流の中橋の方向へ斜めに墜ちていった。中橋の上空で、一人が後部座席から飛び出し落下傘で降下した。もう一人は、飛び出したものの落下傘が開かず、そのまま河川敷に激突して死んだ。
 子供たちと一緒に、中橋に行ってみると、木刀を腰に差した消防団員や警察官が血だらけになったアメリカ兵を、まるで仕留めた大鹿でも運びたすように手足を棒に縛りつけて警察署の方へ運んでゆくところだった。その後、瀕死のアメリカ兵が、どうなったのかは不明のままである。
 B29による攻撃は、軍事施設から、次第に市民を対象とする無差別攻撃に替り、多く市民が犠牲になった。殲滅作戦が誰によって、どのような論理で遂行されたかは定かではないが、狂気と言う意外に言葉がない。
 東京の下町を焼き尽くした東京大空襲の夜は、足利から見て百キロ南の東京の空が真っ赤に焼けただれて見えた。一回の空襲で十万人以上の人が焼け死んだと言う事実を知るのは、戦後しばらく経ってからである。
 東京に限らず、中小の都市にもB29が次々に飛来し、焼夷弾の雨を降らせた。足利の街に直接B29がやってきたのは、敗戦も真近になってからである。
 空襲警報で家族全員が庭先の防空壕に避難していると、鈍い爆音が響いてきた。見上げると漆黒の夜空に真っ赤な火の球が飛び散り、まるで枝垂れ花火のように尾を曳きながら落ちてくるのが見えた。
 母は幼い姉弟をつれて郊外に向かい、父と下の弟と私の三人は家に残り、バケツに水を汲んで、万一の火災に備えた。幸い焼夷弾は、街の南と北の農村部に落ち、市街地に火の手が上がることはなかった。
 翌朝戻ってきた母の話によると、逃げた先の道端に焼夷弾が落ち、行く先々に油の臭いが漂うっていたと言う。
 翌日、弟がどこかで不発の焼夷弾を拾ってきたので、その鉄板を利用して鍋をつくることを思いついた。長さ五十センチほどの筒状の容器から二人で油を抜きとり、万力にかけて底にある起爆部を鉄鋸で切り落とし、火薬の入っている部分は川に棄てた。残った筒は平らに延ばして知り合い工場に持ち込み、プレス機でフライパンに加工してもらった。肉厚のフライパンは見栄えもよく何度か主食のサツマイモを焼いた覚えがあるが、その後どうなったかまでは思い出せない。