戦時下の足利中学校

 私の通っていた旧制足利中学は、市の北のはずれ、両崖山麓にあった。渡良瀬川畔のわが家からは歩いて30分ほどの距離である。
 街中を抜けて、一面に稲田が広がる本城田圃を真っ直ぐ北に進み、途中、山沿いの道を左に折れると校門が見えてくる。校門の正面、百メートルほど先に昭和天皇の写真が納められた奉安殿があった。左手には校庭が広がり、右手に大正の風情を遺す洋風の講堂があった。
 校舎は、講堂を先頭に背後の中庭を挟んで左右しシンメトリーに配置され、奥に体育館があり、その先は渡り廊下で柔道場、剣道場へと続いていた。
 そこで私は、因縁の教師、丸山先生と出合うことになる。その件については次節で詳しく述べることにしたい。
 B29が日本各地に飛来するようになると、一級上の三年生以上の生徒は、軍需工場に動員されるになり、空いた校舎の一部は、モンペ姿の女子工員が働く飛行機の部品工場として利用されるようになっていた。
 残った生徒たちは、勤労奉仕と言う名目で、しばしば近郊の村の農作業に駆り出された。学生たちは、現地に着くと四、五人のグループ分かれ、各農家に出向いて田植えや稲刈りなど、季節に応じた仕事を手伝うことになる。
 奉仕活動は、午前十頃に始まり、昼休みを挟んで午後四時頃まで。時間は短いようだが、学生たちもよく働くので、それなりに評判もよかった。
 当時の農村は男手がほとんどなく、家にいるのは大抵女、子供、年寄りだった。行ってみると、どの農家にも昭和天皇の写真と若い兵士の写真が飾ってあった。若い農家の嫁が戦地からきたばかりと言う葉書を見せてくれたこともある。
 なかには支那で戦死したと言う息子の写真を見せながら、誇らしげにわが子の死の様子を語ってくれた老人もいた。
 学生たちにとって、勤労奉仕の楽しみは農家が用意する白米のにぎり飯だった。もちろん生徒も弁当を持参していたが、肉体労働の後のにぎり飯は最高のご馳走だった。行く先々の農家が必ずしも裕福だったわけではない。小作農であろう、中には藁葺き屋根が傾きかけた小さな農家もあった。自分では食べなくても、白米のおにぎりを学生たちのために用意してくれたのではないだろうか。