丸山先生という人

ここで話を丸山先生に戻そう。先生とは国語教師として、また中学一年から五年までのクラス担任として顔を突き合わせていた間柄である。
 先生は、ようやく三十路を越えた頃だったろうか。見るからに、水母のような水気の多い肥満体質で、厚みのある肩の上に載る入道のような坊主頭は、みる者に病的な印象を与えた。その顔は蒼白く、いかにも神経質そうで、太い黒縁の眼鏡の中からいつも猜疑心が凝縮したような目を覗かせていた。
 出合った最初の一年はなに事もなく過ぎた。しかし二年になる頃から生徒に対して暴力を振るうようになり、鉄拳制裁は度を越えてエスカレートしていった。
 生徒たちは丸山先生と言わずボーイングとあだ名で呼び捨てにした。それはB29の襲来と期をいつにしていたように思う。生徒を殴る教師は他にもいたが、彼の生徒に対する殴り方は尋常ではなかった。
 通常「いじめ」は、弱い奴、のろまな奴、できの悪い生徒に向けられるが、ボーイングは、特に虫の好かぬ奴には容赦なかった。その虫の好かぬ奴の筆頭にいたのが私だった。 軍人勅諭に「上官の命令は朕の命令と心得よ」と言う一節がある。軍隊においては一切の口答えは許されない。それは朕、すなわち「神」の言葉によって暴力が保証されると言うことを意味する。当時軍隊では、よく知られているように、下級兵士に対する暴力は日常茶飯事に行われていた。
 学校では生徒に対して教師は上官に当たる。ボーイングは成績が悪いといって私を殴り、反抗的だという理由で私を殴った。しかし いかなる理由であれ、折に触れて私を殴ったのは、両者の間が、性格的に水と油の関係にあったとしか思えない。もちろん殴られたのは私だけではなかったが、教室の後ろに張られていた〇×表をみると、私の×が最も長く数が多かったことを今でも思い出す。
 当時私は、そのことを親に告げ口もできず、四六時中便秘や腹痛に悩まされていた。それでも学校を休むこともせず、殴られるのを覚悟で毎日学校に通っていた。
 ボーイングの制裁は、やがて拳から竹刀に代り、ますます威力を発揮するようになった。竹刀で殴られると、頭に5センチほどの瘤ができる。その瘤が幾つも並ぶことも少なくなかった。
 竹刀は一週間に数度の割合で襲ってきた。しかし私にも捌け口があった。強い者が殴れば、その矛先はさらに弱い者に向けられる。
 ボーイングに最も多く殴られ、事あるごとに侮辱された私は、腕力に自信があったこともあり、休み時間に、周りにいた友だちの頭を意味もなく殴り、腕をねじ上げた。なかには泣き出す者のもいたが、何とか休み時間の間に納った。しかしそれが発覚すると、またボーイングに嫌と言うほど手痛い仕打ちを受けた。
 ボーイングにしごかれた者は、もちろん私だけではない。同時代の多くの卒業生の間で今でも語り草になっているところをみると、如何に彼が常軌を逸した教師であったかが分るのではないだろうか。