敗戦の日

 中学三年の夏、1945年、昭和二十年八月に敗戦の日を迎えた。ラジオの臨時放送で、天皇が不明朗な声で敗戦を告げると、家の中が一瞬、鎮まりかえった。父は目に涙を浮かべ、母は押し黙った。昨日までの張り詰めた思いは、嘘のように消え、言いようのない虚脱感だけが残った。
 日本はまだ負けたわけではない。戦いはこれからだ。一億が玉砕するまでは戦争は終わらないと抗弁する者もいた。
 すでに広島、長崎に原子爆弾が投下され、多くの死傷者がでたと言うニュースは伝えられていたが、原爆は白い布を被っていれば大丈夫だ言い張る者もいた。しかし私の心に去来する敗戦の印象は、全く別なものだった。
 敗戦の日、真夏の空は、どこまでも高く、抜けるように蒼かったと言う記憶が私にはある。そう言えば、同年代の作家の城山三郎もテレビで同じような感想を語っていた。もちろんその日が雲一つない晴天だった言うわけではないが、森閑とした蒼空の下を涼しげな川風が、音も無く流れていく風景が今でも私の脳裏にくっきりと焼きついている。
 昨日まで上空を旋回していたアメリカの戦闘機の影はすでになく、重く垂れこめていた空気が一挙に崩れ落ち、頭上には蒼空だけが残った。
 戦争は終わったが、飢餓は相変わらず続いていた。母はいつものように輪切りにしたサツマイモを干し、私は渡良瀬川へ水泳に出かけた。