その後


 夏休みが終わると、相変わらず戦闘帽を被り、何事もなかったように学校へ通い始めた。すでに奉安殿は固く閉ざされ、敬礼をする者もなかった。
 しかし一歩職員室に入ると、そこは異様な空気に包まれていた。教師たちはあくまで冷静に振る舞おうとしていたが、普段と違い、言葉も少なく、出来るだけ生徒と目線を合わせないようにしているかのようにみえた。
 敗戦は、否応なく教師たちに価値観の変更を迫った。しかし長年、上からの指示、命令を忠実に履行してきた教師たちには、戦時中の皇国史観に代わるべき新たな価値の枠組みが示されない限り、動きようがなかったのではないだろうか。
 人は誰でも、長期間に亘って維持してきた思想、信条を一夜にして覆すことは出来ない。しかし教師という職業は、生徒の問いに対して常に答えを求められる立場にある。
 しかしそれだけではない。もし教師が無節操に態度を変えれば、人間としての品位を失うばかりでなく、生徒たちにも混乱を与えかねないからだ。
 とはいえ、教師にも専門職という逃げ道がある。軍事訓練を教えていた配属将校は別として、たとえば数学の教師であれば、方程式の解き方を教える技術職に徹すれば、それでもよいわけである。
 教師たちは、それぞれに一抹の不安を抱きながら教壇に立った。これまで自分を支えてきた軍国日本と言う巨大な秩序が崩れ去り、代わるべき思想も混沌としたまま、教壇に立つことを余儀なくされた教師たちの戸惑いは、筆舌に尽くし難いものだったに違いない。その思いをありありと態度に示していたのが斉藤先生の授業だった。
 物理を担当していた斉藤先生は、教室に入るってくると、生徒に背を向けたまま、何事か独り言のように呟きながら、黒板に張りつくようにして、物理の記号や数式を書き連ね、時間になると振り返ることもなく、生徒たちの騒ぎをよそに、消えるように教室を出ていった。当時すでに初老の域に達していた先生の後ろ姿は、思い返せば、あまりにも寂しそうだった。敗戦という現実は、斉藤先生に限らずすべての教師の肩に重くのしかかっていた。
 もう一人、定年を過ぎてから時間講師として漢文を教えていた白田先生の場合を見てみよう。先生は、軍国日本の信奉者で、大和魂の優位を語り、敗戦近くまで鬼畜米英に対する復讐を説いていた。先生はよく「臥薪嘗膽」言う言葉を口にしていた。堅い薪の寝て恨みを思い出し、苦い熊の膽を嘗めて恨みを忘れてはならないと言う中国の呉、越の争いから採ったもので、戦前にはよく使われていた言葉である。
 その白田先生が、戦後日ならずして百八十度、態度を変えたことを多くの生徒が目撃している。マッカーサーが厚木飛行場に下り立ってから間もなくのことである。昨日まで鬼畜米英一辺倒だった先生が突如、マッカーサー元帥は、史上稀にみる偉大な将軍であると言い出したのである。その判断が正しいかどうかは別にして、白田先生の言葉を唖然として思いで聞いていたのは私だではなかったはずである。
 人間とはこうも変ることができるものかと言う驚き、それが私の受けた率直な感想だった。そしてこれほど見事に、生徒の目の前、変わり身を見せたのは、教師のなかで白田翁ただ一人だけである。
 一般に相反する時代への適応は、長い助走期間が必要となるが、外部からの何等の力による強制もない段階で、自らの意思で転向を語ることになったのはどのような理由によるものだろうか。
 後知恵で考えてみれば、マッカーサーによって昭和天皇が死刑を免れ、形の上で萬世一系の皇統が維持されたことと決して無関係ではなかったようにも思える。
 白田先生が、一人ズック鞄を背負い、前屈みの姿勢で校門を出て行ったのは、それから間もなくのことだった。