隣家の悲劇

公園の高台に立つと、東西に長い足利市を一望に見渡すことができる。北側に足尾山塊の山襞が迫り、南に蛇行する渡良瀬川が銀鼠色に光ってみえる。市街地は一帯に灰色にくすんだ町並みがつづき、至る所にボイラーの煙突が突き出ていた。当時、林立する煙突は、織物の街足利の活気を顕す象徴とも思われていたが、今にして思えば、それは公害の原風景そのものである。
 当時の足利は、全国的にみても、結核患者の数が最も多い街として知られていた。私が知る範囲でも、結核で亡くなった人が少なくない。目の前の長屋でも靴屋の兄妹が立て続けに結核で亡くなっているし、小学校の頃、旧友の一家でも同級生とその兄が相次いで他界した例もある。
 私が時々、思い出すのは、隣家の工場主の家で起こった悲劇である。その家には五人の子供たちがいたが
短い間に年長の男兄弟が次々に結核で他界し、姉の同級性だった目の澄んだ色白の女の子も二十歳を待たず亡くなっている。
 その家は、その後、別の場所に大きな工場を建てて移っていったが、ほどなく主人夫妻も次々に結核で死んだと聞いている。結核による悲劇と煙突の数は決して無関係ではないはずだ。
 私の家の隣にあった織物の整理工場にもボイラー用の大きな煙突があり、四六時中灰色の煙を吹き上げていた。時には庭にまで流れ込んでくることもあった。そう考えると、わが家で結核患者か一人も出なかったことは、幸運だったと言うべきかも知れない。

当時はまだ、戦争の足音は遠い霞の彼方にあり、足利の織物も好景気が続いていた。 春になると、冬の間、川面を吹き荒れていた赤城おろしも収まり、川端の桜も薄紅色の彩りをみせはじめる。
 桜の季節になると、わが家では女工さん共々、家中で花見に行くのが習わしだった。土手下のわが家から、長屋の路地を抜けると目の前にわたらせ橋あり、そこから川筋に沿って花見のメッカ足利公園までは桜並木が切れ目無く続いていた。
 目指す公園は、足利の西の外れにあり、古墳跡が点在する小高い岡になっていた。公園までの砂利道を一キロほど行くと、小さな広場があり、突き当たりに蓮岱館と言う名の料理屋があった。
 裏手にまわると幕末から明治にかけて活躍した日本画家田崎早雲の記念館がある。旧足利藩士田崎早雲は若くして江戸に出て、画を学び、幕末には勤王の志士として活躍した。明治に入ると、足利に帰り、画業に専念して多くの作品を遺した。記念館は早雲の晩年の住居跡である。
 足利公園は、桜が咲く頃になると、市内各所から集まる大勢の花見客で賑いをみせた。柄物の晴れ着をきた若い女工さんの姿も花見の雰囲気を引き立てていた。
 園内の遊歩道を進むと、開けた一廓があり、枝振りのよい桜の下に二、三の茶店が軒を並べていた。
 その中の一軒に「みよしの」と言う馴染みの店があった。花見の時は家中で必ずそこに立ち寄り、トコロテンや団子、ゆで卵などを食べるのがなによりの楽しみだった。
 そこからさらに坂道を登ると、岡の中腹に海軍の軍人らしい人の記念碑があり、実物の爆雷と魚雷が展示されていた。
 岡の上は、当時、御立ちが岡と呼ばれ立ち入り禁止になっていた。御立が岡とは昭和天皇が足利に立ち寄った折、そこから足利市街を眺めていたことの記念として名づけられたと言う。天皇が、神に擬せられていた頃の名残である。

長屋の暮らし

 足利は昔から続く織物の街である。昭和十二年日中戦争が始まってからも、まだしばらくの間は、街には鋸屋根の織物工場があり、至る所で横糸を運ぶ「ひ」の音が響いていた。 街にでるとしばしば出征経兵士を見送る行列に出合うことはあったが、それはあくまでお祭りのような「ハレ」の日の行事の一コマであり、子供の暮らしには戦争の持つ暗い影は全くなかった。
 その頃は事あるごとに大人も子供も提灯行列に駆り出された。提灯を持った群衆が夜の大通りを練り歩き「ばんざい」を唱える声が今でも耳に残っている。
 私の小学校4年は、日本の暦で皇紀二千六百年と言う年に当たる。日本の起源が、神代以来二千六百年目に当たると言う超歴史的な時期に遭遇したことに、子供ながら、なにか晴れがましい思いをしたことがある。
 その時、私の作った詩の書き出しは次のような言葉で始まる。
  いまぞ迎える日本の紀元は二千六百年
  ああ僕らは小学生 お国のために 心と体を鍛えましょう

 二行目以下は必ずしも正確ではないかも知れない。その詩が文集に載った記憶はあるが、文集そのものが失われてしまったので、今となっては確認する術はない。
 当時小学4年生だった私には、もちろん二千六百年と言う意味がわかるはずもなかった。ただ子供心に、なにか素晴らしいことだと言う感覚はだけはあったような気がする。
 その頃、私の家は一日中機織りの音が響いていた。鋸屋根の五十坪ほどの工場に二十台ほどの織機を並べ、七、八人の住み込みの女工さんと近所の主婦を合わせて十人ほどが主に足利名産の銘仙を織っていた。
 住み込みの女工さんは、十五、六から二十歳くらいで、朝七時から夜八時近くまで働いていた。大半は年季奉公で、親に連れられてやってきた。年期奉公の場合は、三年なら三年分、五年なら五年分の契約金の大半を親が受け取り、女工さんには月々お小遣程度のお金が渡されるだけだった。
 女工さんの居住環境は、極めてお粗末で、ウナギの寝床のような細長い八畳ほどのスペースに七、八人が重なるように寝ていた。女工さんの他に男性が二人働いていた。カズどんと呼ばれていた若い男は、荷物の運搬や油だらけになって織機の故障を直す仕事をしていたように思う。もう一人は少し年配の聾唖者で、太郎さんと呼ばれていた。太郎さんは、しゃべれないと言うハンデはあるが、工場内のどんな仕事でも器用にこなしていた。 私の母も時々工場に入り、食事を用意する時間を除いて、女工さんたちと一緒に夜遅くまで働くこともあった。
 住み込みの女工さんの多くは、栃木県東部の田舎からきていた。真岡、益子、茂木などの名をよく耳にしていたが、どの娘が何処からきたかまでは特定できない。当時の農村は一般に貧しく、娘たちが年頃になると町に働きに出るのが当然と考えられていた時代だった。
 若い女工さんの仕事は、最初は子守から始まる。当時は「産めよ増やせよ」時代だったので、どこの家でも大抵は五、六人の子供がいるのが普通だった。街に出るとさらに小さい十二、三歳くらいの女の子がよく子守をしている姿を見かけた。

夏の河川敷

夏になると渡良瀬川の河川敷には、三、四軒の葦簀張りの茶店がでた。店まわりには竹の縁台が置かれ、店では、小さく切ったジャガイモを串刺しにしてフライにしたイモフライやコロッケ、かき氷などを商っていた。客は主に近所の子供たちか、川辺に遊びにきた家族ずれが一時立ち寄るくらいのものだった。それでも日焼けした顔のおかみさんはせっせとイモフライや豆腐のおからを平らに延ばしたコロッケを揚げていた。
 もう一つ渡良瀬川の風物詩として忘れられないのは、夏に開園する納涼園である。納涼園は板張りで造られた仮の劇場で二園あり、一つ小屋では旅役者が演ずる股旅ものなどの時代劇が演じられていた。
 もう一つ小屋では若い女たちが演ずる唄や踊りが華やかに繰り広げられていた。
 当時、入場料がどのくらいだったか覚えはないが、子供の小遣では入場できるほどの金額だったと思えない。一、二度誰かに連れられて入った記憶はあるが、どんな芝居だったかまでは憶えていない。
 はっきり記憶しているのは、小屋のまわりに一段高く戦争画が飾られていたことである。絵は当時名の知られた画家の戦争画を、映画の看板のように大きく拡大しいたもので、海戦図や零戦による空中戦図が目をひいた。
 昭和十二年、日中戦争画始まる頃から有名画家の多くが戦地に動員され、戦意高揚のための戦争画を描いた。藤田嗣治ノモンハンの戦闘を描いた絵はよく知られており、藤田は他にもアッツ島玉砕など多くの戦争画を描いている。細い筆で透き通るような女性像を描いてパリ画壇で名をはせた藤田の筆力は、戦争画を描いても傑出していた。
 思い出すままに名をあげれば、他にも宮本三郎小磯良平猪熊弦一郎などの画家が頭に浮かぶ。
 戦争画は、人々を戦争に引き込む上で大きな力を発揮する。日露戦争でロシアのバルチック艦隊を撃破した日本海海戦で、旗艦三笠のデッキに立つ東郷元帥の絵は、戦争画の傑作して広く知られている。絵の持つ視覚的なインパクトは強烈で、理屈抜きに人々に食い込み、戦争肯定へと駆り立てる力を持っている。
 こうした戦争画はやがて子供の絵本にも溢れるようになり、庶民を戦争の賛美者へと導くために、戦争とはおよそ無縁な渡良瀬川の芝居小屋にも飾られるようになったのだろう。 戦争遂行に馬車馬のように走り始めた軍部の圧力は、画家に限らず文学者にも加えられたのは言うまでもない。

山辺町

 足利市の南縁に沿って流れる渡良瀬川には、銀色のわたらせ橋と褐色に塗られた中橋の二つの鉄橋がある。すでに公害の記憶も薄れ、渡良瀬川の水は私のなかでは、いつも澄んだ瀬音を立てて流れている。
 私にとって河川敷は子供時代、唯一の遊びの空間であり、この二つの橋の間を流れる渡良瀬川が、今でも足利の忘れ難い景観として記憶のなかから立ち上がってくる。

 渡良瀬川の対岸の山辺町には大小二つ浅間山はあり、小さい方は女浅間、大きい方は男浅間と呼ばれていた。今はないが女浅間の裏手には、くぬぎ林が広がり、よくクワガタ虫を探しにいった思い出がある。
 子供の私にとって、対岸の山辺町は屈強な子供が棲む異世界だった。相手方もそう思っていたはずである。だから双方が縄張り意識を持ち、相手に対して漠然とした敵意ようなものを抱いていた。
 両岸に住む子供たちは、よくわたらせ橋を挟んでよく石合戦をした。石の投げ会いは激しいものだった。事前に衝突の日が決まっていたかどうかは定かではないが、山辺側から子供たちが大挙して橋を渡ってくると、こつら側も手作りの木の盾をもって応戦した。時には殴り合いになることもあったが、ケガをしたと言う記憶はない。
 山辺町には楽しかった思い出もある。対岸の河川敷には、毎年春と秋、牡丹園が開園し、近隣から着飾った大勢の人たちが集まり賑わいをみせた。牡丹園は、季節になると一面に色とりどり牡丹の花か咲き乱れ、娯楽の少ない当時としては、まるで別世界に迷い込んだような華やいだ気分にさせる場所だった。確かに真紅の牡丹は綺麗だったが、今から思えば、園内には小さな演芸場があるだけの極めて素朴な遊園地だったような気がする。

昭和初期の記憶2

 中州で近所の子供たちと遊んでいた時、子犬を拾ったことがある。とても可愛い子犬だったので、しばらく一緒に遊んでいたが、いざ帰る段になると、連れて帰るものは誰もいなかった。子犬は川を渡ることができない。そのまま死なせては可哀そうだと思い、こっそり連れ帰って、物置小屋の隅でしばらく飼っていたが、やがて家の者に見つかり、捨てに行くことになった。
 涙ぐんでいた私を母が見て、お前が自分で世話をするなら飼っていいよと言ってくれたので、以後、その子犬は、ペチと名づけられて我が家に棲みつくことになった。
 当時の飼い方は、今のように鎖に繋いで飼うわけではない。あくまで放し飼いである。ペチは残飯に味噌汁をぶっかけた餌をがつがつ平らげると、町内の野良犬と一緒に遊びまわっていた。今にして思えば、犬にとっても人間にとっても、どこかのんびりしていたよい時代だったような気がする。
 

昭和初期の記憶

                   
昭和初期の記憶(戦前の話) 

 私の家は足利の南を流れる渡良瀬川の土手下にあった。子供の頃、近くの長屋の子供たちとよく河川敷で遊んだ。その頃、川にはまだ本格的な堤防がなく、川べりには水流を調整するための石を詰めた蛇籠が敷き詰められていた。春になると蛇籠のまわりには小さな針メダカが群れをなして泳ぎまわっていた。

 五歳を過ぎる頃になると川の中州が遊び場になった。中州に降りるには、まず鉄橋の欄干を越えて橋桁を降りなければならなかった。橋桁の高さは下の砂地まで二メートルほどあったろうか、橋桁から飛び下りることは子供でも出来たが、登るには縄梯子が必要だった。ある日、一人で中州に降りたものの、その日に限って縄梯子がなく、泣きながら中州を彷徨ったことがある。幸い、釣りにきていた大人に出遇い、事なきを得たが、その時の心細かった思いは今でも忘れ難い。