飢えの記憶

 戦争末期から戦後にかけての時期を一言でいえば、「空腹の時間」と言うことができる。当時主食の米はもちろん、小麦、大豆、肉類などは厳しく統制されており、その量も年々少なくなっていた。
 わが家でも一回の食事は、丼一杯と言う厳しい制限が加えられるようになっていた。その量は子供の食欲からすると半分にも満たないもので、食事の後はいつも漫然とした空腹感に悩まされた。
 空腹感は、四六時中ついてまわった。当時、純粋の米の飯は、冠婚葬祭などの人寄せの時以外、ほとんど口にすることはなかった。
 普段の食事は、少量の米にヒジキやジャガイモを角切りにして炊き込んだもので、ヒジキの煮汁で丼飯は赤紫色に染まっていた。しかしそれでもまずいと思って食べたことは一度もなかった。
 当時、中学生だった私の昼飯は、紫色のヒジキ飯か、蒸したサツマイモだった。クラス五十人のうち、白飯の弁当を持ってくる者は一人か二人しかいなかった。なかには弁当を持たずにくる生徒もいた。
 戦争も末期になると、食料不足は一層深刻になった。日々の食卓は、米の飯に代わりジャガイモかサツマイモが主役になった。当時の配給食料はすべて合わせても、今のカロリー計算でいけば、半分にも満たなかったのではないだろうか。
 その頃、母は庭先に筵をひろげ、サツマイモを輪切りにして天日干しにするのが日課のようになっていた。腹が減ると天日干のサツマイモをよくつまんで食べた。
 夕食は大抵、すいとんですませたが、その小麦粉の配給も徐々に減り、代わりにサツマイモだけ、ジャガイモだけと言う日が続くようになった。
 時々、土色をした未利用資源のパンが配給されたが、それは、とてもまずくて食べられる代物ではなかった。原料として何を使っていたのか不明だが、多分、コーリャンに米糠、藁などを混ぜたものではなかったかと思う。それに較べれば母手作りの天日干サツマイモの方がはるか旨かった。
 配給量も日を追って少なくなり、それを補うために近隣の農家によく買い出しに出かけた。農家といっても大抵は以前からの顔見知りの家で、丁重に頭を下げて、わずかばかりのカボチャやジャガイモを分けてもらった。
 全く面識のない農家に行く場合は、なけなしの晴れ着を持参するか、闇相場より高いお金を用意しなければならなかった。それでも野菜一束も手に入らないことがしばしばあった。リヤカーを曳いて五キロほど歩いて買い出しに廻ってみたが、手に入れたものは数個のカボチャだけ、と言うこともあった。
 当時、街の住人は、誰もが買い出しで心身を磨り減らしていた。ある裁判官が、法律違反の買い出しを拒否し、配給品たけで暮らしていたが、とうとう餓死してしまったと言う噂が流れたのは、昭和二十二年の晩秋の頃だったのではないだろうか。
 生きることは食うことであり、食うためにはどんな手段を使っても食料を手に入れなければならない、誰もがそう思い、必死に買い出しに走った。
 太平洋戦争の末期は、戦後に続く長い飢えの時代のまだ序の口に過ぎなかったが、その凄まじいまでのエネルギーは、すし詰めの買い出し列車を写した白黒写真に今も鮮やかに記録されている。

戦争の曲がり角

すでに日本の劣勢は誰の目にも明らかだったが、地上では、戦意を鼓舞するために各地で竹槍訓練が行われていた。竹槍とB29とでは、比較すること事態、笑止千万な話だが、しかし誰もが竹槍で敵の一人や二人は倒せると信じて訓練に臨んでいた。
 竹槍は、蟷螂の斧の譬えで言えば、実際の戦闘には何の役にも立たないが、精神を奮い立たせる効果はあると本気で考えていたのかも知れない。
 陸軍の三八式歩兵銃もその例外ではない。すでに太平洋戦争では、自動小銃が主流になっていたにも拘らず、日本軍は明治時代に開発された三八式歩兵銃を戦争中ずっと使い続けていた。上級軍人のなかには、兵器の遅れは大和魂でカバーできると、堂々と主張する者も少なくなかった。特に軍の幹部は、本心からそう思っていたのではないだろうか。
 しかしなかには「竹槍戦術は無意味である」と述べる合理的な考えの持ち主もいた。その人は次のように主張していた。「竹槍の練習をする時間あったら、その前に敵の兵器の使い方を学習すべきである」と。
 戦場で敵の兵器を手に入れるチャンスはいくらでもある。敵の兵器を事前に研究しておけば、同じレベルの武器で対等に闘うことができると言うものだ。たしかに言われてみればそり通りかも知れない。もちろんこれで戦闘が有利に展開できるかどうかは別として、当時としては、珍しく理に適った考え方する人だなと思った記憶がある。

 その後、B29は太田市に隣接した小泉町にも編隊で飛来してきた。その時は逆に日本の戦闘機らしい影が、白い煙をあげて一直線に落下してゆくのがみえた。
 太田市と小泉町は足利から二十キロほど離れており、その時もまた、遠く爆弾の炸裂音を聞きながら、私を含めて多くの大人や子供たちは、渡良瀬川の堤防に立って、威圧するような轟音を響かせて上空を飛び去るB29の不気味な姿を眺めていた。
 戦争も末期になると、足利周辺にも頻繁に艦載機が飛来するようになった。戦闘機は低空を飛んでくるので、機影もはっきり見える。大抵の子供たちは、それが何と言う名の飛行機か図鑑を見てよく知りつくしていた。
 思い出すままに名を挙げれば、零戦の敵役と知られるグラマンF6Fヘルキャット、海軍の司令長官、山本五十六が乗る偵察機ブーゲンビル島で撃墜した双胴の戦闘機、ロッキードP38、その他にもP51ムスタングなどの米軍主力の艦載機が縦横に飛びまわっていた。
 敵機がやってくると、足利公園の山頂から機関砲が鳴り響き、無数の弾幕を張る。しかし何故か、その間、日本の戦闘機が姿を見せることはなかった。
 堤防の上から艦載機が白煙をあげて墜ちてゆくのを見たのもその頃である。戦闘機は煙の尾を曳いて、下流の中橋の方向へ斜めに墜ちていった。中橋の上空で、一人が後部座席から飛び出し落下傘で降下した。もう一人は、飛び出したものの落下傘が開かず、そのまま河川敷に激突して死んだ。
 子供たちと一緒に、中橋に行ってみると、木刀を腰に差した消防団員や警察官が血だらけになったアメリカ兵を、まるで仕留めた大鹿でも運びたすように手足を棒に縛りつけて警察署の方へ運んでゆくところだった。その後、瀕死のアメリカ兵が、どうなったのかは不明のままである。
 B29による攻撃は、軍事施設から、次第に市民を対象とする無差別攻撃に替り、多く市民が犠牲になった。殲滅作戦が誰によって、どのような論理で遂行されたかは定かではないが、狂気と言う意外に言葉がない。
 東京の下町を焼き尽くした東京大空襲の夜は、足利から見て百キロ南の東京の空が真っ赤に焼けただれて見えた。一回の空襲で十万人以上の人が焼け死んだと言う事実を知るのは、戦後しばらく経ってからである。
 東京に限らず、中小の都市にもB29が次々に飛来し、焼夷弾の雨を降らせた。足利の街に直接B29がやってきたのは、敗戦も真近になってからである。
 空襲警報で家族全員が庭先の防空壕に避難していると、鈍い爆音が響いてきた。見上げると漆黒の夜空に真っ赤な火の球が飛び散り、まるで枝垂れ花火のように尾を曳きながら落ちてくるのが見えた。
 母は幼い姉弟をつれて郊外に向かい、父と下の弟と私の三人は家に残り、バケツに水を汲んで、万一の火災に備えた。幸い焼夷弾は、街の南と北の農村部に落ち、市街地に火の手が上がることはなかった。
 翌朝戻ってきた母の話によると、逃げた先の道端に焼夷弾が落ち、行く先々に油の臭いが漂うっていたと言う。
 翌日、弟がどこかで不発の焼夷弾を拾ってきたので、その鉄板を利用して鍋をつくることを思いついた。長さ五十センチほどの筒状の容器から二人で油を抜きとり、万力にかけて底にある起爆部を鉄鋸で切り落とし、火薬の入っている部分は川に棄てた。残った筒は平らに延ばして知り合い工場に持ち込み、プレス機でフライパンに加工してもらった。肉厚のフライパンは見栄えもよく何度か主食のサツマイモを焼いた覚えがあるが、その後どうなったかまでは思い出せない。

戦争の曲がり角

 昭和十七年、1942年、日本海軍はミッドウエー海戦で壊滅的な打撃を受けたことは、今では多くの人に知られている。その戦闘で、日本の機動部隊は、アメリカ艦載機の奇襲をうけて主力空母四隻を失い、事実上、洋上での制空権を失うことになった。
 以後、戦争の拡大が止まり、やがてガダルカナル島からの撤収が伝えられた。しかし当時の大本営発表は全く逆な戦果を国民に伝え、真実は隠された。限られた情報のなかにあって、誰もが日本の勝ち戦を信じて疑わなかった。
 間もなくブーゲンビル島ラバウルが占拠され、多くの島民が、断崖から飛び下りて自から命を絶つなど想像を絶する悲劇が繰り返されていたことなど知る由もなかった。ほどなく硫黄島が占拠され、擂鉢に星条旗が立つと、日本本土も戦場の一部に組み込まれるようになった。
 硫黄島を飛び立ったアメリカの重爆撃機ボーイングB29が日本の各地を空爆するようになってもまだ国民の大多数は勝利を信じて疑わなかった。
 圧倒的な力を持つ蒙古軍が、台風によって壊滅した故事が繰り返し語られ「いざとなれば日本には神風が吹く」と誰もが期待を込めて信じようとしていたのである。
 しかし合理性を欠く神風神話も、ボーイングB29の度々の襲来で、徐々に崩れ始めていた。
 私が初めてB29を目にしたのは、隣町にある太田市中島飛行機工場を大挙して爆撃した時である。私は大勢の子供たちと一緒に渡良瀬川の堤防にかけ上って、B29の編隊を固唾を飲んで眺めていた。九十機ほどの一団が黒い点となって、対岸の浅間山の上空を悠々と飛んで行くのが見えた。
 B29の機影を追うように高射砲が一斉に発射され、上空一面に無数の白煙が次々に炸裂するのが見えたが、B29の編隊は、弾幕のただ中を悠然と飛び続けた。
 その時、それは一瞬の出来事だったが、編隊中のB29二機が突然衝突し、きりもみ状態で墜ちてきた。一機は尾翼の辺りから真っ二つに折れ、もう一機は機体の前方部を大きく損傷していた。機影はみるみる大きくなり、まるで散弾で傷ついた鴨のようにゆっくり回転しながら山の陰に消え、つづいて鈍い爆発音が聞こえてきた。
 B29は高射砲によって撃墜されたのか、日本の戦闘機が体当たりしたのか、それは分からない。もし日本の戦闘機が接近したとしても、それは点のように小さく、視認することは出来なかったからだ。

隣組

 その頃本土でも、国民総動員体制が着々と進んでいた。日中戦争の拡大と共に始まる隣組みは、昭和十四年には全国に普及し、臨戦組織としての役割が明確に打ち出されるようになる。
 当時わが家でも月に一度ほど、定期的に常会が開かれるようになっていた。隣組の常会は大抵夜開かれ、毎回、長屋から二十人ほどの女たちが集まってきた。常会での話は主に貯蓄の奨励、国債の割当、生活物資の配給などだった。戦後、紙屑同然となる貯蓄、国債の割り当ては、貧しい長屋の人々にも、半ば強制的に行われていたのではないだろうか隣組みでは、常会のほかに定期的に防火訓練も行われていた。防火といっても消火器ガあるわけでもなく、それぞれにバケツを持ちより、一列に並んでバケツリレーの早さを競う訓練だった。
 そのバケツリレーが、後年思わぬところで役立つことになる。
 忘れもしない、わが家が炭火の不始末で火事になった時のことだ。夜中、目が覚めると工場の屋根一面に炎が這い上がっていた。父は「火事だ、火事だ」と叫びながら火に覆われた壁に、懸命にバケツで水をかけていた。工場の床には、天井の明り取りの硝子が散乱し、足の踏み場もない状態だった。
 弟が外に飛び出し、前の長屋に火事の報せに走った。すると間発を入れず、長屋から一斉にバケツをもって男や女たち飛び出し、訓練さながらの手際のよさでバケツリレーを始めた。そのお蔭で火はみるみるうちに収まり、大火に至らずにすんだのは不幸中の幸いだった。これも隣組みの日頃の訓練の成果である。
 この他に竹槍の訓練なども行われたが、竹槍が実戦に役立つと思っていた者は誰もいなかったのではないだろうか。

戦闘機

織物の街足利に戦争の影響が直接、目に見える形でやってきたのは、それから間もなくのことである。それは軍靴で、無抵抗な虫を踏みつぶすように突然やってきた。
 足利では軍の命令で多くの工場で織機が破壊され、屑鉄として回収された。小学校の校庭にも鉄屑となった織機の破片が山積みされるようになった。その後、鉄屑がどのように利用されたかは不明だが、かなり長い間、野積みになっていた。
 織機が撤去された工場には、小型の卓上旋盤が運び込まれ、市内の織物工場の大半がにわか仕立ての鉄工場に変った。
 わが家でも、昨日まで機を織り、糸を紡いでいた女工さんたちは、慣れない旋盤を操り、ジュラルミンの小さな部品を懸命に加工していた。おそらく戦闘機の部品の一部でも削り出していたのだろうが、本当に使い物になったのだろうか。旋盤の不得意な子は、指先を真っ黒にして黙々とネジ切りに励んでいた。
 仕事の発注元は、当時、陸軍の飛行機を生産していた中島飛行機製作所の下請けである。中島飛行機は足利にほど近い群馬県太田市と隣接する小泉町に大きな工場を持ち、主に陸軍の戦闘機を造っていた。
 足利でも繊維産業が消滅した後は、多くの人たちが、中島飛行機の職工として動員されるようになっていた。
 子供の頃、毎朝、わたらせ橋を渡って中島飛行機に向かう蟻のような自転車の列を、まるで白黒映画の一シーンを見るように今でも鮮明に思い出すことができる。
 その頃、父は小泉町に中島飛行機の下請け工場を持ち、毎日二十キロほどの砂利道を自転車で通っていた。砂利道の夏はうだるよう暑く、冬は凍えるように寒かった。父は冬になると「手袋をしていても、しびれるような寒さが伝わってくる」とよくこぼしていた。
 小学校の六年の頃になると子供たちは、軍用機に強い関心を示すようになる。父の工場のある小泉町には飛行場があり、私も父の工場を足場に、度々、飛行場の見学に出かけた。もちろん中には入れないが、道を隔てた鉄のフェンスのすぐ近くにいつも二十機くらいの戦闘機が並んでいた。それが陸軍の主力戦闘機の隼なのか鍾馗なのか、今の私には判定する術はないが、その頃の私は、はっきりと機種を見分けることができたような気がする。
 戦闘機に限らず兵器には子供の心を惹きつける要素がある。一つは相手に打ち勝つ魔力的な力として、もう一つは高性能な兵器が持つ玩具としての魅力である。

太平洋戦争の頃

 

 昭和十六年、1941年、真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争は、初戦で大きな戦果を収めた。小学校高学年だった私は、ラジオから東部軍官区情報と言うリフレーンが流れる度にラジオに齧りつくようにして、大本営発表を聞いていた。
 何故、日本が無謀とも言えるアメリカとの戦争に踏み切ったのか。そのことについては今でも様々な分析が行われているが、個々の理由は別として、結果として戦争を回避できなかったのは事実であり、イギリスの歴史家トインビーならって言えば、軍国日本が、発展、爛熟、消滅と言う宿命的な路線を辿ったと言うことになるのかも知れない。
 その考え方は、必ずしも次世代への反省を導き出すものではないが、だからと言って日本国民を戦争に駆り立て、多くの庶民に想像を絶する被害を与えた軍官僚の責任が見逃されるわけではない。
 たしかに太平洋戦争の初期には、多くの日本人が戦勝に酔いしれ、心の底から、軍国日本、あるいは神国日本と言う名のナショナリズムを高揚させていたのも事実である。しかしそれは太平洋戦争が日本本土と言う観客席から遠く離れた地域、東南アジアや南の島国で行われていたからではないだろうか。

戦争の影

隣の工場には、女工さんは少なく、工員の多くは若い男たちだった。彼等は野球好きで、近くの子供たちを集めてよくキャッチボールをしていた。
 その彼等にも戦争の影は徐々に近づきつつあった。
 日中戦争が進につれて、男たちの何人かも兵士として招集されるようになっていた。彼等はまだ内地勤務だったので、盆や正月の休みには大抵、軍服姿で工場に戻ってきた。
 多分正月だったと思うが、そんな彼等といろりを囲みながら話したことがある。その時炊事係だったと言う一人がこんな話をしていた。
 小意地の悪い上役で、二等兵を毎日ように殴る奴がいた。何かにつけ問答無用と拳を振うので仕返しに、みんなで頭のフケを味噌汁に入れてやった。ところがその上官は、そんなこととは露知らず「旨い、うまい」と言いながらその味噌汁を飲んでいた。そのしたり顔を見て、みんなで大笑いをしたと言う、たったそれだけの話だが、余程痛快だったのだろう、集まった男たちも腹を抱えて大笑した。
 軍隊に陰湿ないじめもの話も数多くあるが、その頃はまだ、それを笑いのめすゆとりもあったと言うことだろうか。